【前回の記事を読む】結核治療は処刑よりも、拷問よりも、ずっとひどいものであった。治らぬ病を患ったカフカはその深刻さに気が付き......
第1章 序章:ジグムント・フロイトとフランツ・カフカ
―その病気と苦悩と死
カフカは、すでに45キロしかない病弱な体でありながら、あらゆる医療措置に雄々しく耐えた。さらに、短い間隔で、カンフル注射をして、呼吸中枢を刺激し、アルコールを注射して、上喉頭神経を遮断するという外科的な処置も行われたが、その効果は長続きせず、痛みの緩和は、ほとんど得られなかった。
カフカの生きる意思は、少なくとも部分的には、まだ壊れてはいなかった。意識は、しっかり保たれており、絶望的な状況にあっても、カフカは、自分で自分を支配して、自己主張をすることを望んでいた。
死の直前まで、出版社から送られてきた『飢えた芸術家』の棒組みのゲラ刷りに目を通し、2日に一度、療養所を訪れる名人床屋のレオポルト・グシルマイスターに髭を剃ってもらっていた。
カフカは不安の念に苛まれていた。それは、人生の終わりに対する不安ではなく、避けて通れない喉頭蓋(こうとうがい)の腫脹に対する不安であった。
特に、喉頭結核の終末期症状は、まさに窒息死を意味するからである。カフカは、数年前にマトリアリーで身をもって経験した同病者の自殺のことを思い出していた。
1924年6月3日の朝食の後で、カフカは、自分の人生を終わらせる決心をした。カフカは、病気というゆっくりと真綿で首を絞めるような拷問に耐えるよりも、むしろ、苦痛の終わりを待ち望んでいた。
いつものカフカは、決してそのようなことはしなかったが、その時のカフカは、看護師を無愛想に部屋から追い出し、体にはりついていた管を激しく引き抜いて投げ捨てた。
「今となっては、もうこれ以上苦しむのはごめんだ! 苦しみを長引かせて、一体何の意味があるのだ!」伝記作家のマックス・ブロートとライナー・シュタッハによれば、カフカは、クロプシュトックに攻撃的なまで必死になって、致死量のモルヒネを要求したそうである。
「クロプシュトック君、君は、いつも、わたしに約束していたよね! 君は、4年間、いつもわたしを苦しめ続けてきた! これ以上、もう君と話すことはない! わたしは、今すぐ死ぬのだ!」
クロプシュトックは、カフカに2回、アヘン剤「パントポン」を注射した。その注射の後でも、まだ懐疑的だったカフカは、クロプシュトックに言った。「嘘をつかないでくれ! 解毒剤を投与したのだろう! 早く殺してくれ! さもなければ、君は殺人犯だ!」カフカは、痛みから解放されていたが、それ以上のものを要求した。
「こんな程度では何の役にも立たない!」クロプシュトックは、さらにパントポンを投与した。その量は、わたし共にはわからない。1924年6月3日、フランツ・カフカは、41歳の若さでこの世を去った。ローベルト・クロプシュトックは、このようにして、カフカとの約束を果たしたのである注1。
「シュアーさん、もはや、生きている意味はない!」