【前回の記事を読む】二機の複葉機は野島と夏島の間にある横須賀海軍航空隊の追浜飛行場に向かって低空で侵入して、飛行場の上空を低空で通過した

一 野島・夏島

奈津は手にしていた赤いパラソルを開き、思いきり差し上げて右手を大きく振った。奈津の目前を横ぎる飛行機には飛行帽を被った二人の搭乗員の姿が見えた。

水上機は奈津の目前を爆音を立てながら通過すると称名寺の裏山に姿を消した。そのまま山向こうの富岡海岸に着水するのだと思った。先導機を追うようにもう一機の水上飛行機も、奈津の目の前をブーンと爆音を響かせて横ぎっていった。

奈津は飛行機から自分の姿が見えたのか不安だった。奈津は今日のために赤いパラソルを準備していたのだ。赤いパラソルならば空からでも気付くのではないかと考えたからだった。

奈津が再び野島の方を振り向くと、初夏の香りに彩られた小島は、青い海を背景にして青空の中に浮かんでいた。自然のたくましい息吹の中で奈津はこの風景と同化していた。

この何の束縛もない自然の中で生きていくことに、自分の未来が繋がっている気がした。昭和十五年春、十河奈津(そごうなつ)、十八歳。

未来はあらゆる方向に開いていた。奈津が金沢文庫駅に再び戻り、上り電車を待っていると、近くの海軍工廠の昼を告げる甲高いサイレン音が鳴り響いた。

湘南電車は新緑に覆われた狭い谷あいを抜け、瓦屋根に黒い板壁の小さな駅舎に着いた。

駅舎は小さいがまだ新しかった。湘南富岡駅の改札口には若い駅員がけだるそうに立っていた。昼間は乗降客が少ないのか少しばかり退屈している様子に見えた。

行商をしているのか背中に大きい荷物を背負ったモンペ姿の初老の婦人が駅員に切符を渡した。その初老の婦人は***に行くのにはこの駅でいいのかと駅員に尋ねていた。

駅員はこの駅でもいいがこの切符は……とブッブツ言った。何度かやり取りがあったが、仕方ないという格好をして行商の婦人を通した。奈津がその駅員に切符を渡すと、駅員は何かを伺うような目つきでじっと見たが、何も言わずに切符を受け取った。

駅舎を出ると、駅前の狭い通りの両側に数軒の店が並んでいた。通りを歩くと、八百屋の店先に面した棚には空豆やジャガイモが竹籠(たけかご)に入れられて並び、一籠あたり二銭や三銭で売られていた。その横には少し伸びた朝取り筍(たけのこ)が数本並んでいた。