店内は屋外の日差しが遮られているせいか、店の奥は薄暗かった。よく見ると、片隅に老婆が座り店番をしていた。老婆はほとんど動かずに座っているので、まるで蝋(ろう)人形を置いているかのように見えた。
数間離れた理髪店の店先にはハンドルが錆びた古びた自転車が一台止めてあり、その横で赤、青、白の三色のらせん模様の有平棒(あるへいぼう)がけだるそうに回っていた。半開きのドア越しに、鏡に向かって座っている男性客とハサミで髪を刈る店主の姿が見えた。
数軒の店を通りすぎると香ばしい匂いがした。小さな魚屋の店先に七輪(しちりん)を置き、はまぐりやサザエを焼いていた。
貝の放つ海の香りと醤油の焦げた匂いが奈津の食欲を刺激した。干物のアジやカマスなどの並んだ魚棚の奥には床几(しょうぎ)と棚があり、棚には酒瓶が並んでいた。
漁師や勤務明けの海軍の兵隊さんを相手に、一杯飲み屋の商売をしているのだろう。小さな田舎町のあけっぴろげな生活は質素だったが、貧しさは感じなかった。
奈津は国道に出ると北に向かって歩いた。国道に沿う山手側には湘南電鉄の線路が平行して走っていた。初夏の日差しはかなり強く、十分も歩くと少しばかり汗ばんできた。さっきの茶店で冷たいサイダーでも飲んでおけばと少し後悔した。
国道の右手の小高い丘が途切れる辺りで、国道は広い道路と交差していた。奈津は国道を右に折れてこの広い道路に入った。道路は国道よりもさらに広く、道の両側には桜の木が植えられ、桜並木は、ゆっくりとカーブしながら下る道路に沿って延びていた。
並木道の桜の若葉は初夏の強い日差しを遮り、葉の間にはさくらんぼの緑色の小さな実が風に揺れていた。奈津は風に混じってくる潮の匂いをかすかに感じた。潮風は肌に心地好かった。
桜並木をそのまま進むと、道の両側に大きな門柱が見えた。左側の門柱の前には白い水兵服を着た衛兵が立っていた。衛兵は右手に小銃を持ち、休めの姿勢で前を向いていた。
その格好は、午前中にお参りした称名寺の仁王像のように、訪問に来る人を威嚇しているようにも見えた。
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