【前回の記事を読む】湘南富岡駅。道路の両側には桜の木が植えられ、若葉は初夏の強い陽ざしを遮り、緑色の小さな実が風に揺れていた

一 野島・夏島

門柱には横浜海軍航空隊と書かれた表札がはめられていた。奈津は海軍の航空隊を訪問するのは今日が初めてだった。どうすればよいのか分からずに緊張したが、ここで逃げだす訳にもいかないと思い直し、仁王のように立っている衛兵に会釈をした。

衛兵は奈津の会釈に、気を付けの姿勢になり立銃(たてつつ)の構えをした。奈津は衛兵に訪問の目的を告げた。衛兵からは命令のような厳しい指示があるのではないかと思ったが、予想に反して、面会所で手続きをするようにと丁寧に案内してくれた。

案内に従って桜並木の道路をさらに進むと、小山を背にして巨大な灰色の倉庫群が目に入った。お城のように巨大な倉庫や運動場よりも広いコンクリートの駐機場には、大型飛行艇や小型の水上飛行機があちらこちらに所狭しと並べてあった。

プロペラを外して整備されている飛行機、ペンキを塗り直している複葉機、数人の整備兵に押されて移動している水上飛行機。東面には初夏の光りを浴びて輝く東京湾が広がり、海上には数機の大きな飛行艇が長閑(のどか)に浮かんでいた。

面会所の受付で、訪問の目的と面会者の名を告げると、待合室の中で待つようにと指示された。奈津は緊張のし通しだったが、薄暗くヒンヤリとした面会所の椅子に座るとホッとした。

赤レンガ造りの面会所には、板を組み合わせただけの簡素な長机と長椅子が十程並んでいた。奈津が来たときには既に二組の面会者がいた。奈津は緊張を解きほぐすために深呼吸をして、二組の面会者をそっと観察した。

一組は年老いた夫婦で、息子と思われる兵士の面会に来ていた。地方から来たのか地味な風采(ふうさい)で、白髪交じりの父親がまだ幼さの残る息子に話しかけていた。

その傍らで母親らしき女が茶色の風呂敷包みを広げ、持ってきたご馳走を並べていた。そのせいか、待合所には卵焼きの甘い匂いが漂っていた。白い作業服を着た息子は父親の話はうわの空で、ひたすら懐かしい母の味を夢中になって食べていた。

部屋の奥の方では三十過ぎの女が幼児を背負い、窓の外を見ながら座っていた。背中の子供がぐずると立ち上がり、背中を揺すって幼子(おさなご)をあやした。夫の面会に来たのか、なかなか現れない人を待つ、期待と不安に満ちた時が流れていた。

格子の入ったガラス窓の外には、初夏の若葉が明るい陽光を浴びてキラキラと輝いていた。その戸外の明るさが、なおさら湿った薄暗い部屋の中をしっとりと感じさせ、室内には人々の臭いがかすかに漂っていた。

突然面会所の入口の戸が勢いよく開く音がした。入口の方向に目をやると外のまぶしい光を背に浴びて、戸口に黒い人影が二つ立っていた。

待合室の受付との短いやり取りが終わると、「奈津ちゃん」と大きい声が響いた。奈津には久しぶりに聞く声だった。確かにそれは聞き覚えのある声だった。

奈津は立ち上がり、入口の方に体を向けた。入口から差し込む眩しい光のせいで、しばらくの間相手の姿が掴(つか)めなかったが、目が慣れてくると黒い人影の姿も表情も分るようになった。二つの人影は奈津の方に近づいてきた。