【前回の記事を読む】「顎部がんの腐敗臭にハエが群がるため、ベッドに蚊帳が張られていた。」――愛犬にも避けられたフロイトの死期。それでも…

第1章 序章:ジグムント・フロイトとフランツ・カフカ
―その病気と苦悩と死

1939年9月23日、自分の死が近いと考えたフロイトは、シュアーの手を取って「親愛なるシュアーさん! あなたは、おそらくわたし共の最初の会話を覚えているでしょう! その時になれば、わたしを、見殺しにしないと約束しましたよね! そうなれば、もう拷問としか言いようがなくて、何の意味もない! アンナ(訳者注:アンナは、フロイトの娘)と話し合って、アンナが了解してくれれば、これですべてを終わりにしてほしい!」と言ったそうである。

シュアーは、フロイトに「モルヒネ20ミリグラム」を注射した。フロイトは、眠りについた。その12時間後に、シュアーは再びモルヒネを注射した。その後、フロイトは目を覚ますことなく、しばらくののち1939年9月23日に逝去した。シュアーは、フロイト伝でそのように記している。

フロイトの死に関するこの記述は、フロイトの生涯に関する数え切れないほどの記述の一部となっている注1

フロイトの最期に関する最近の研究では、シュアーの記録には、不完全で矛盾している部分があることがわかっている。このことは、フロイトの死について、シュアーや他の人びとがコメントをしているさまざまな文書や手紙(一部はフロイト自身が書いたもの)からも明らかである。

例えば、シュアーは、フロイトの投薬や死亡時刻について異なる記載を残している。彼は、フロイトの家族の長年の友人であった女医のシュトロス博士の存在に言及していない。フロイトが死亡した時に、彼女が一緒にいたことを隠しているのである。

シュアーもユダヤ人であった。それで、アメリカへの移住準備を急いでいたので、フロイトの傍にいなかったことについて黙っていたと考えられる。フロイトの死を確認して、死亡診断書を書いたのは、シュアーではなくて、イギリス人の医師G.G.エクスナーであった注2