【前回の記事を読む】【厳冬期 劔岳・小窓尾根】「マイナス40度は結構やばい」さらに、明日は悪天候——気象予報をラジオで聞くと…

第二章 小窓尾根

川田もザックを下ろしながら「こんにちは」と挨拶を返した。「どこからこられましたか」と訊かれたので、一,四〇〇メートルの肩からですと答えた。

「そちらは、一,六〇〇メートルピークからですか」と、川田が聞いた。

「ええ、寝坊してしまってね。ラッセルもきつかったからなかなか進みませんでした。ワカンも持ってきてないもんで」

先行パーティーの二人のうち、年長者の方が自嘲気味に言った。しかし、そんな会話には気にも留めず登攀の準備を始めた鬼島につられ、川田もザックに手をかけた。

まずブーツからワカンを外しハーネスを腰に装着する。一本ずつ持参した八·二ミリメートル径、五十メートル長のクライミングロープを出し、カラビナや、スリングなどの登攀用具も取り出した。そしてブーツにアイゼンを装着し、防寒用の目出し帽を被り、その上からヘルメットを被った。

登攀のため、それまでザックに括りつけてあったピッケルとバイル(ハーケンなどを打つハンマー部分を兼ね備えたピッケル)を取り出し、ピッケルはハーネスのピッケルホルダーにかけ、バイルを手に持った。

鬼島と川田がすっかり準備を終えると、登攀を始めていたはずの先行パーティーのうちの若い方が引き返してきた。

「あの、どちらから越えるんですかね」鬼島の動きが止まった。

「あ、あのニードル。いや初めてなので、なかなかルートがわからなくて。フィックスロープ(固定ロープ。足場の悪い岩場などを安全に通過するためにあらかじめ張られているロープ)が右側にかかっているんですけど。ちょっと悪そうなんですよ」

「は?」と、鬼島が顔を上げた。鬼島はそのまま若者を凝視した。何言ってんだ、こいつ?とでも言い出しそうだったが一呼吸置いてから、「ああ、右からですよ、右からニードルの岩塔を巻くように行くのです」と指南した。

ところが先行パーティーは全く動かず、鬼島と川田が近づくと、あっさり、お先にどうぞと先を譲ってくれた。

鬼島は「じゃあお先に」と言ってニードルの岩肌に打ち込んであるリングボルトにカラビナをかけ、スリングと安全環付きのカラビナを使って確保用の支点を作り、そして自らのハーネスに結んであるデイジーチェーン(カラビナなどをかける輪が複数ついたスリング様の布紐)をその支点にカラビナで繋ぎ自己確保(セルフビレイ)を取った。

こうしておけば、きわどい岩場で万が一足を滑らせても滑落することはない。川田も同じようにセルフビレイを取った。そしてロープを解いて一端を自らのハーネスに結び、もう一端を鬼島に渡した。鬼島も同じように自分が持っていたロープを解いて一端を自らのハーネスに結び、もう一端を川田に渡した。

どちらがトップで登攀するか事前に話し合われることもなかったが、鬼島がリードで行くことは暗黙の合意だった。

川田は自分のハーネスについた確保器に、鬼島のハーネスから伸びている二本のロープをセットし、鬼島を確保(ビレイ)した。これで万が一鬼島が落ちても川田がロープを張れば確保器で滑落を止めることができる。ビレイの準備が整うと、川田は「いいですよ」と鬼島に告げた。