【前回の記事を読む】「人殺しを仕掛けたんだよ。誰でもいいからぶっ殺してやるつもりだったんだ。」自分の生い立ちを語る男に、少女は寒気を覚えた

第三章 はぐれ小雀と眼無し鳥

「し、知りません」

謙志郎には何が何だか分からなかった。

「おい、こいつに焼きを入れようじゃないか」

それからの謙志郎は地獄だった。皆で寄ってたかって殴る蹴る。中にはタバコの火を押し付ける者さえいた。店主が気付かなければ謙志郎は殺されていたかも知れない。

彼は一晩中痛みに耐えた。次の日、謙志郎の顔は腫れ上がっていた。さすがに浜根は気がとがめたのか、

「おい、そんな顔で客の前に出るな。早く冷やせ」

だが、その日は猫の手も借りたいほどの忙しさで、謙志郎は顔に包帯を巻いて客に寿司を運ばなければならなかった。

「そそっかしいから転びましたと言うんだ、分かったな」

主任格の浜根が言った。謙志郎はうなずいた。なじみの客が数人やってきて、テーブル に座った。

寿司を運んできた謙志郎に、

「兄ちゃんその顔、けんかでもしたのかい」客の問いにすかさず、

「こいつ、そそっかしいから転んだんですよ。きっと」

浜根が言い終わらないうちに謙志郎はすでに包帯を外し、客の前に立った。

「僕は転んだりなどしません」

あろうことか、彼は昨日のいきさつを漏らさず客に話して聞かせた。さらに、自分の通帳さえも飯野に取り上げられてタバコの火で焼かれたことも入念に話した。浜根は啞然としてその場に凍りついた。

「この店はそんなことをするのかね」驚いた客に、

「これは大変お見苦しいところを。使用人の立ち居振る舞いを監督できなかった私めの落ち度でございます。お口直しに……」

店主の江頭が数本の徳利を客に差しだし、謙志郎に部屋へ帰るよう命じた。

「さすが大将、ご馳走(ちそう)になるよ」

客たちもそれ以上は触れなかった。

部屋へ帰った謙志郎は腸(はらわた)が煮えくりかえっていた。ここには一時もいたくはなかった。通帳は飯野にタバコの火で焼かれていたから、謙志郎は着の身着のままで部屋を出た。

謙志郎に気付く者は誰もいなかった。彼には寂しさも何もなかった。早く東京を離れたかった。師走に入ったからか、駅には臨時の急行列車が停まっていた。