【前回記事を読む】【紫式部日記】紫式部は約半年書き続けてきた日記を自分の意思で「閉じた」
第一章 紫式部日記
一 現行日記に沿って
日記の追加
寛弘六年一月までで日記を閉じた作者が、なぜ五月の日記を書いたのか考えてみる。
「このついでに」に続く記事の終わり近くに次の記事がある。
されど、つれづれにおはしますらむ。またつれづれの心を御覧ぜよ。また、おぼさむことの、いとかうやくなしごとおほからずとも、書かせたまへ。見たまへむ。(二一一)
作者は、「私の書いたものを読んでください。また、何か書いてください。拝見しましょう」と言っている。
二月から四月の間に何が起こったか考えると、相手が作者の願いに応えて、何か作品を送ってきたことが考えられる。相手は最近の出来事か歌などの作品とともに、「これからも、毎月でなくてもいいから日記を続けて書いてほしい」と言ってきたのではないかと想像される。
作者は、それに応じて、五月の日記を書いて送ったのではないだろうか。そして、その次に送ったのが、寛弘七年正月の日記だったのではないかと考えられる。日記が閉じられた後に、五月と翌年一月の日記が書き加えられたという形が見えてくる。
「このついでに」に続く部分の結び近くに、
夢にても散りはべらば、いといみじからむ。耳も多くぞはべる。(略)御覧じては疾(と)うたまはらむ。(二一一)
と、見たら早く返してほしいと頼んでいるので、相手は後に作者に日記を返したことが考えられる。日記に後からの加筆があり、官職の訂正があるのは、いったん返却されたこと以外の理由は考えられない。
作者は、日記を自分の作品だと意識していて、八月から翌年一月までの日記を、読んだら返してほしいと言っている。
寛弘六年五月の日記は、十一日の暁と五月後半に詠まれたと思われる四首の歌を持ち、寛弘七年正月の日記は、前半の三日までと、後半の十五日の記事を持ち、どちらも日記と言える最低限の条件は備えていると考えられる。二回とも、日記として送られている。