【前回の記事を読む】【終戦80年】昼休みに突然の下校命令、防空頭巾の妹と走った空に浮かぶ戦闘機の不穏な影

伝えたいこと(講演会)

こんにちは。田中祐子でございます。皆様方にこれから戦争の話、原爆の話、などを聞いていただくために広島から参りました。

私が原爆被爆者の一人として日々祈ること、願うことは、「二度と戦争をしないこと」です。この地球が原爆・水爆などの核兵器で無惨な目に合うことがないように、平和で豊かな生活が永遠に続きますように、ということだけです。

普通に夜が来て、何事もなく朝を迎える。私が少女時代には信じられないことでした。今から戦中・戦後、特に原爆が投下された当時のことをお話しさせていただきます。

ですが、その前に信じがたいと思っていることを申し上げます。

永世中立を謳い上げているスイスには立派な軍隊があり、たくさんの武器を所有しており、その武器を中東に輸出しています。永世中立国がまるで戦争をけしかけているようなものです。なぜでしょう? 

それは軍隊、武器を持っていないと中立はできないのだそうです。日本にしてもそう。「二度と戦争はしない!」と言いつつも、アメリカからたくさんの武器や爆撃機を購入している事実があります。私達はそのような物を購入するための税金は払っていません。

ですから私は、「二度と戦争はしない」という言葉を信じられません。

「どこかの国が攻撃してきたときに防衛しなくてはならないから」と私の知る国会議員は言いました。

防衛することは、すなわち戦争です。私達は二度と再び子や孫を戦場に送り出したくありません。あの日の苦悩、悲嘆、絶望、狼狽は筆舌につくせるものではありません。だからこそ、酷たらしく悲惨な原爆の惨状を、思い出すことも苦しい事実を、私は話させていただかなくてはなりません。

私が住んでいたのは爆心地から一・八キロメートルくらい南の平野町というところでした。