【前回記事を読む】【終戦80年】「焼け死ぬるけえ、早う逃げんさい」――ピカっとした瞬間、意識を失った。気が付くと潰れた家の下敷きになっていて…

伝えたいこと(講演会)

裸同然の人達は不安と苦痛で呻き、泣き大声で喚き、この世のものではない世界です。思い出したくもない惨い状景でした。何を考えることもどうすることもできません。

幸い水道は壊れてなくて、水を飲んだり、焼けた体を洗ったりしていました。そして夕方、

「この辺はもう焼けんじゃろう」

と言う父の判断で家に帰りました。そこには「家が丸焼けになりよる」と言う叔父と従妹が来ていました。崩れた家の玄関とおぼしき所の地べたに従妹は寝ていました。叔父は、

「信子は死んだんじゃ。焼かにゃあいけん。夏じゃけえ、置いといたらすぐ腐る」と言いました。どの家も全部壊れていて、燃える物はたくさんあります。それらを引っ張り出して並べ、その上に従妹を乗せ、従妹の死体の上にもいろいろ乗せて、そのまま焼きました。

可哀想とも悲しいとも何の感情もありませんでした。肉か魚を焼くような匂いの中で叔父が、

「白い着物を着せんと焼けん言うが大丈夫じゃろうか」

と言いました。信ちゃんは紺の制服にモンペでした。でも焼けました。私は「人間ってなかなか焼けないもんだなあ」と思いながら板や木切れをくべて、火が消えないように燃やし続けました。キャンプファイヤーでもするようにです。

翌日、昼過ぎにやっと骨になりました。人間とは恐ろしいもので、極限になると苦しさも悲しさも何もない、可哀想とも思わない、心がなくなるのか、とあとで思いました。今「死体を焼け」と言われても絶対できないと思います。

また、私は今日まで、何百回、何万回も考えました。あのとき、信子ちゃんは本当に死んでいたのかと。お医者さんに診察されて、「何時何分、ご臨終です」と言われたわけではないのです。叔父が「死んだ」と言ったから焼いただけです。もし、まだあのとき命があったとしたら、私は何をしたのでしょう。