あれは昭和二十年八月六日の朝のことでした。八時ごろに空襲警報が発令されましたが、すぐ解除になりました。ホッとした瞬間、ピカッと閃光がひらめきました。
フラッシュの何十倍何百倍かくらいの光で、私はそれっきり意識がなくなっていたようです。よく「ピカドン」と言われますが「ドン」は聞いていません。
その日、私は学徒動員で工場に行くはずでしたが、体調が悪くお休みしていました。そして閃光のあと何分か何十分か、気が付いたら辞書をしっかり抱いて机の下にもぐりうずくまっていました。何が何だかわからないけど、家が潰れてその中に閉じこめられているらしいと思いました。
ともかく外に出なければならない。私は机の下から這い出てあたりの物を、襖や天井、板壁なんかだったのでしょう、そんな物をかき分け、押し上げ、どうにか首だけ外に出せました。
見渡す限り広島の街はぺっしゃんこ。私の家もぺっしゃんこで、身動きもできません。周囲はシーンとして、人一人居ません。端から端まで見える広島の街一面、ぶっ潰れた家ばかり。あちらこちらで火がぼうぼうと燃えていました。
ふいに私は正気に戻り、「大変だ。逃げなくっちゃ」、やっとそう思いました。私は大声で、
「助けてェ。助けてェ。誰か助けてェ!」
と叫び続けました。ひょっこり男の人が来ました。潰れた屋根の上を走るように歩いて来て、あれこれどうにかして屋根の上に引っ張り出してくれました。
「どうなったんですか?」
と聞くと、
「わからんが火が燃えてくる。焼け死ぬるけえ、早う逃げんさい」
と言って小父(おじ)さんは私を抱き上げて地面に降ろして庭まで連れて行ってくれ、
「お母さんがおってじゃ。早う一緒に逃げんさい」
と言って走って行かれました。