「寺坂君いるか」
何と桜木社長の声だった。さすがの寺坂も珠輝を放し、
「はい、ちょっとお待ちください。今マッサージを受けて終わったので、手を洗いに連れていきますから」
寺坂は珠輝を立たせると洗面所に連れていき、水道の場所と石鹸の置き場所を丁寧に教えた。寺坂は珠輝の耳元に口をよせると、
「気の済むまで手を洗いな。だがよう、さっきのことは決して社長に言うんじゃないぞ、もし言ってみろ、俺はこれでも殺しの謙さんって言われたんだからな。ここまで聞きゃあ分かるよな。俺の本当の仕事は殺し屋よう。俺が目を付けた野郎は必ず始末した」
言うだけ言うと、寺坂は出ていった。珠輝は夢中で手を洗い続けた。涙は止まることを知らなかった。得体の知れない物を握らせた寺坂が心底憎いと思った。
まるで我が身が汚れきったような気がした珠輝だった。リッキー・カーチスに会うまでは、あんないやらしい物など触りたくはなかった。これがどこかでばれたなら、笑い者になるのは珠輝だ。寺坂には何のとがめもないだろう。
もう生きていたいとは思わなかった。どこで死のうと誰も悲しみはしないだろう。今日の有り体を桜木社長の前で話し、寺坂という得体の知れない男に殺されよう。
両親は最初少しくらい涙は流してくれるだろうが、やがて忘れるに違いない。いや、もし従兄弟や弟たちに結婚話が出た際、
「珠輝が死んでくれてよかったなあ。犯人は捕まらんから刑務所にも行くまいし、出てきて復讐されることもなかろうが」
典子伯母の声までが聞こえるようだった。
次回更新は8月20日(水)、21時の予定です。
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