「ごめん。僕がうっかり――」
「ううん、あたしがぼやぼやしてたの」
「違うよ、僕が悪かったんだよ」
「聞いちゃいらんないな」
誰かが逃げ出す格好をして周りの笑いを誘った。二人はまだ婚約を発表していない。それが顔に書いてあるとも知らずに、目を見合わせて秘密を楽しんだ。
楽しいのだ。山川と一緒にいてこんなに楽しいのだ。決心は間違っていなかった。あさみは越前のことを頭から振り払った。
軽快な音楽。難しいステップ。失敗。やり直し。笑わせるのがうまいW先生。やっとステップが覚えられた! 汗をかき、しゃべったり笑ったり。
頭には純粋にダンスと山川のことしかない、とあさみは思った。さっきの転倒騒ぎは、向こうにいる越前の耳にまで届いただろうか、などとは考えていない。
自分を選んでくれなかった男に対して、他の男との仲睦まじさを見せつける快感を、ひょっとしたら自分は味わっているのではないだろうか、などとはつゆも頭にない。あさみの中にはもう越前の『え』の字もない……。
越前と少女の仲は、案の定長く続かなかった。少女はあれから欠かさず例会に通ってきたが、アルバイトをすることになったから、と一時(いっとき)顔を見せなくなった。
その後忘れたころになってポツンと出てきたり、ごくたまに二度続けて姿を見せたり、途中で帰ったりした。少女が出てくれば、越前はそばへ行って声をかけたが、その声のけだるそうな調子を聞かなくとも、あさみには察しがついた。
少女がアルバイトを始める前に、越前のほうはとっくに飽きてしまっていたのだ。それを卑劣にも義理立てして声をかけている。