この時代、生活に少し余裕が出てきた人々がいる一方、生活苦を主な理由とした自殺も、多く発生していた。 警察官と国鉄職員が、検分と後始末のため、線路に立ち入っていた。その中に、千津は吉井先生の姿を見つけた。
先生は、駅務員をしながら駅裏の自宅でそろばん塾をやっており、千津も四年生になってから、近所の子供たちと通い始めていた。本庄の家は芸事などを認めないが、学業に役立つものには比較的寛容だった。
先生はヒョイと素手のまま、線路に転がっていた手首を拾い上げた。
それを見ていた千津は、
「やだー、気持ち悪い。絶対、吉井先生の手には触られたくない」
と叫んだ。その声は先生には届かなかったようだった。
塾には、放課後に近隣の小中学生が続々とやってきて、長机を並べた部屋で、珠算の練習に取り組んでいた。
ある日、塾が始まる前、道路端で千津が女の子たちと石蹴りをして遊んでいると、年長の男の子たちが自分たちの方を見て、笑いながら話をしていることに気がついた。その後も千津が一人でいる時や、先生に指名されて答えている時に互いをつつき、合図を交わしニヤニヤしていた。
明らかに自分が、彼らの関心の対象になっているとわかった。
ある時は、どこで手に入れてきたものなのか、学校の文集に載っていた千津の詩を大きな声で読みだした。
〝春 早く来い スミレやタンポポ たくさんの花々を咲かせに
春 早く来い 水色の空にチョウチョがひらひら 小鳥のさえずりを聞かせに〟
「いやだなあ」と思いつつ、それからはその二人のことが気になり、彼らの存在を意識しないではいられなくなった。そして、なぜか二人を見ると胸がドキドキするようになっていた。
中学生の兄弟がいる友達の話から、背の高い方が笹岡達治、もう一人が叶順一郎という名前であることがわかった。