いま、戦争体験を伝える意味とは
戦後80年…。今年2025年は、終戦から80年経ったメモリアルイヤーです。
戦争を実際に体験した方々の多くが高齢を迎え、戦争の記憶が静かに風化しつつある今、私達は戦争とどう向き合うべきなのでしょうか?
「戦争と向き合うなんて難しそう…」と思われるかもしれませんが、実はそんなに構える必要はありません。
本記事では、第二次世界大戦・太平洋戦争を体験した一般の方4名の体験談をご紹介します。
語られるのは、当時の“普通の”生活の中にあった出来事であり、それがすなわち「戦争」でした。
教科書や公的な資料では知ることのできない戦争の実態を知ることで、より戦争と自身の生活を結び付けて考えることができるのではないでしょうか?
「戦争と向き合う」とは単に歴史を知ることではなく、戦争というものを、今ここにいる自分自身の視点で捉え直すことなのかもしれませんね。
ご紹介するそれぞれの体験談が、戦争を“過去の出来事”ではなく“自分にも関係のあること”として考えるきっかけとなれば幸いです。
この記事を読んでほしい人
・戦時中の市民の暮らしについて詳しく知りたい
・原爆が投下された瞬間を見た人の話を聞きたい
・疎開に関するリアルを知りたい
・太平洋戦争、第二次世界大戦についての学びを深めたい
・自分やご家族の戦争体験を残したい/どうすれば形として残せるか調べたい
・戦争の記憶を風化させないために個人でできることを考えたい
目次
「ピカ・ドン(原爆落下)の瞬間を見た」…少年が両眼に焼きつけた光景
戦争が起きたら生活はどうなる?――「荷台に積み込まれて…初めて、自分が疎開することを知った」
実は近くにある戦争:「戦争は遠い存在に見えた」と語った戦争体験者の話から見えてくること
戦争を知らない世代へ…原爆を体験した91歳の被爆者が詠む短歌
「ピカ・ドン(原爆落下)の瞬間を見た」
…少年が両眼に焼きつけた光景

一九四五(昭和二十)年八月六日の朝のことだった。
学校に着くと、すでに定例の八時開始の朝礼が始まっていた。
Mは慌てて校門脇にある二宮金次郎の像の前に立った。校長の朝の挨拶が終わると、生徒一同、男は木刀、女は竹槍を持ってきて、薩摩芋の畑にされている運動場の畦に並んだ。
朝礼台の上に立つ男の先生の号令に合わせて「ええい、や! ええい、や!」と木刀を振り、竹槍を突き始めた。Mも遅ればせながらも木刀を構えて振りかざそうとした。そのときB29の爆音が聞こえてきた。
ふと上空を見上げると、落下傘が一つ黒っぽい筒のようなものをぶら下げて落ちてきた(平山画伯は三つと書いているがMが見たのは一つだけだった)。一瞬の奇妙な光景が、Mの脳裏に焼きついた。何だろうと思った。
朝礼台の先生が飛び下り、大声で「逃げろ! 教室へ」と大声で叫んだ。生徒たちは一目散に駆け出した。
その瞬間、辺りが急に明るくなって、ピカッと強い光線が走った。
「写真うつしたど!」と誰かが叫んだ。
間髪を入れずドーンと地面を揺るがすような轟音が響いた。
まさにピカッと光って、ドンだった。その直後に南西方向にある山の上に、もくもくと白い雲が立ち上ってきて、きのこの形になって大きく広がっていった。Mは足が、まだ不自由で皆と一緒に駆け出せず、一人だけ遅れた。
初めて見る巨大で異様なきのこ雲を見つめながら、ゆっくりと教室に向かって後じさりした。まだ走ると足の裏が痛かったお陰で駆け出せず、まざまざと一生忘れることのできない瞬間的な情景を、しっかりと両眼に焼きつけることができたのだった。Mは直感的に広島市に新型の爆弾が落ちてきたのではと思った。
(中略)
午後になると、Mたちが借りていた岸川の家の前の八重から大朝へ通じる県道を大八車やリヤカーなどに乗せられた瀕死の怪我人が次々と運ばれていった。
薄い布団とか掛ける覆いがなかったのか、焼け爛(ただ)れた体を隠すために蚊帳(かや)が掛けられた虫の息の人がいた。その蚊帳の網目から血と溶けた肉が噴き出していて蠅が何匹も留まっていた。
「水をくれ、水をくれ」と、掠れた必死の声がするので、Mは茶碗に水を入れて追っかけていったが、車を引く人から「水を飲ますといけんのじゃ。すぐに死んでしまいよるけえ」と拒絶された。Mは「最後に一口飲ませてやれば、ええのにのう」と思って次々と運ばれてくる怪我人にも水を持っていったが、運んできた人は、「死ぬけえダメじゃ」と言って飲まそうとしなかった。Mは最後に一口だけでも飲ませてやりたかった。
その日から、広島から大朝に通じる省営のバスは一台も通らなくなった。……(続く)
『ピカ・ドン(原爆落下)とマリリン・モンローを見た少年M』今子正義・著 より引用
著者は原爆投下当時、母や兄妹と一緒に家族で広島県山県郡の八重町に疎開していました。そこでは、裸で川に入って魚を捕ったり、友人と川遊びに夢中になったりと、豊かな自然の恩恵を受けながらある程度潤いのある生活を送っていたようです。
そんな日常を破壊するように、原爆が投下されました。
その日は雲一つない快晴で、抜けるような青空が広がっていた日だったそうです。
『ピカ・ドン(原爆落下)とマリリン・モンローを見た少年M』は、1937年広島市小町(現中区)生まれの今子正義さんが過去を回顧して描いた真実の物語です。
「原爆落下の光景とマリリン・モンローの実物の両方を見た」という、なんとも小説より奇なる実体験が記されています。
太平洋戦争の経過、そしてその終焉を、実体験の記憶によって描いた本作。公的な文書ではなく、個人的な記録だからこそより鮮明に見えてくるものがあるのかもしれません。
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体は焼け爛れ肉がむき出しに…運ばれてくる瀕死の重傷者たち。最後に一口だけでも、水を飲ませてやりたかった。
戦争が起きたら生活はどうなる?
――「荷台に積み込まれて…初めて、自分が疎開することを知った」

四季の変化が少ない南国沖縄でも、我が家の庭先には美しい花々が春を告げますし、夏には蝉の大合唱を聞くことができました。畑の砂糖キビの穂が美しく波打つ晩秋には、渡り鳥のサシバが天空を舞うこの長閑な島にも、やがて風雲急を告げる戦さの足音が幼な心にも感じとることができる世相を迎えていました。
校庭の片隅では、藁で巻かれた丸太棒を敵兵と見做した竹槍訓練が行われ、我が屋敷の片隅には、敵機の空襲に備えて防空壕が設営されました。サイレンの音響とともに、一目散に壕へと避難する訓練が行われるようになっていました。
そんなある日の夜半、まだ明けやらぬ真暗闇の中をたたき起こされました。母と弟らと一緒に部落の外れまで来ると、そこには多くの人々が集まっています。荷馬車には柳行李が満載されており、子供たちも荷台に積み込まれていきました。
そこで初めて、戦禍を避け内地への疎開に旅立つことを知りました。
大人の男は重い荷物を担ぎ、女は頭に載せて、長い道程を荷馬車の後をついていきます。東の空がやっと明るくなった頃、那覇の港にたどり着きました。
一九四四(昭和十九)年八月十八日、那加川丸にて賀数(かかず)部落の十数家族とともに、母と弟と私の三人で、祖母と叔母に見送られ鹿児島に向けて旅立ちました。
乗船した船は、にわかに改造した貨物船でした。二層式の居室は私たち子供でさえ直立できない高さで、まるですし詰め状態です。
そのような状態にありながら、そこかしこで船酔いのために嘔吐をする者が多く、その臭いと人いきれで、船内はまるで地獄の様相を呈していました。……(続く)
『ひたすら病める人びとのために(下)』大仲良一・著 より引用
疎開先での生活については、戦争を題材にした映画やドラマなどでよく見かけるので比較的イメージしやすいと思います。ですが、疎開する直前・最中の記録はなかなか見当たらないのではないでしょうか?
荷台に積み込まれて初めて、自分が今から疎開先に旅立つのだと知ったという記述から、当時の人々の日常生活がどれほど戦争に翻弄されていたのかが垣間見えますね。これでは明日の予定を立てたって無駄になるかもしれません…。
『ひたすら病める人びとのために(下)』は、1935年沖縄県糸満市生まれの大仲良一さんが、自身の半生を記した記録になっています。そのエピソードの数々から、疎開前の沖縄の様子から疎開先での生活の様子、終戦後の日々まで、個人の視点で戦争を見渡すことができることでしょう。
獣医として満州に徴用されていた父とのことや、周囲との人間関係など、感情とともに日々の出来事が描かれているのが本作のポイント。
戦争を体験した人がどんな気持ちで生活していたのか想像しながら読み進めることで、戦争が日常生活に与える影響について理解が深まるはずです。
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ふるさとの沖縄は本土決戦への防波堤へと化し、疎開先でも空襲警報のサイレンが鳴り響いた。戦争の足音は日増しに大きくなり…
実は近くにある戦争:
「戦争は遠い存在に見えた」と語った戦争体験者の話から見えてくること

私は昭和19年(1944年)の春に小学校に入った。
当時は小学校と云わず国民学校と云った。戦争中はそう呼んでいた。国民学校では祝日に天皇陛下の御真影を拝する儀式があった。校長先生が白い手袋を着けて奉安殿と云う校庭にある建物から講堂の前面の祭壇に御真影と教育勅語を厳かな雰囲気の中運び込む。その間生徒は最敬礼をして深く頭を下げたままでいる。そして教育勅語が読まれる。
たまにきょろきょろあたりを見回す生徒がいると平手打ちをかまされたりする。小さな子供なので吹っ飛んで倒れる。そんな光景を見ていた。
戦争中とはそういうものであった。
私が住んでいた所は田舎で、戦争は遠い存在に見えた。
田んぼに囲まれた学校だったが空襲の退避訓練をしたりした。布頭巾を被って走って逃げ、伏せをして、目と耳を押さえ口と鼻を指で広げる、それが爆撃に遭った時の対処法でそんな防空演習だった。
また毎晩夜になると〝警戒警報〟が出され〝ブンブン〟と音を立てB- 29の編隊が高空を飛んで行く。灯火管制と云って小さな白熱灯の上から小田原提灯のような黒色の管をかぶせ、薄暗い光の中で、ただ静かに〝ブンブン〟と云う音を聞いて夜を過ごすのであった。
B- 29の編隊は琵琶湖を目印にして大阪に向かうといわれていた。ラジオはやがて〝警戒警報解除〟を告げ、〝中部軍情報! 中部軍情報! 敵機は熊野灘を退去せり〟と放送するのだった。大阪を爆撃した後で。
昼は昼とて見上げる空に米軍の戦闘機が飛んで来る。グラマンは翼(よく)の端が直線で、ロッキードは双胴だったので簡単に分かった。あれは〝グラマン〟あれは〝ロッキード〟と子供でも見分けがつくようだった。それが不思議だった。おそらく敵機を識別する事を学校で教えていたのかもしれない。
『テクテク琵琶湖渚を一周してみたら』原田道雄・著 より引用
田んぼに囲まれた学校に通っていた著者は、「私が住んでいた所は田舎で、戦争は遠い存在に見えた」そうです。確かに、空襲被害の多い地域からの知らせなどを聞くとそう感じるのも自然なことなのかもしれませんね。
ですが、戦争を知らない世代の視点でこの記録を振り返ると、当時を生き抜いた戦争体験者の「戦争は遠い存在である」という認識とは、だいぶ異なった印象を受けるのではないでしょうか?
天皇陛下の御真影に最敬礼をしながら教育勅語を聞く。爆撃に遭った時の対処法を訓練する防空演習。夜は薄暗い光の中で、ただ静かに敵機の音を聞いて過ごす…
このような描写からは、戦争の影響を多く感じられるはずです。ですが、当事者にとってはそれでも「戦争は遠い存在」と認識されるほど、戦争がごく身近で当たり前なものとして、生活を侵食していたことがうかがえます。
『テクテク琵琶湖渚を一周してみたら』は、1937年生まれの原田道雄さんによる、琵琶湖を巡る古今の回想録です。
「おじいちゃんと歩きながら、戦争の話を聞く」といった、戦争体験者が高齢化した昨今ではなかなか難しい体験を疑似体験できる貴重な一冊と言えるでしょう。
👉記事全文を読む
心臓病&脳梗塞を経験した85歳が、思いつきで「徒歩で琵琶湖一周」計画を実行!幼い頃から慣れ親しんだこの地を歩くと思い出す…
戦争を知らない世代へ…原爆を体験した91歳の被爆者が詠む短歌

戦なき 世に生まれ来し 若き等に 如何に伝えむ 原爆の惨
原爆ドームの前で写真を撮る人等 ピースで 笑顔で 自動シャッター
戦後さえ 知らぬ人等は 原爆の話 グリム童話の如く聞くかも
聞く人も 語れる人も 少なくて 忘却されるか 原爆の惨
『短歌集 命の極み』田中祐子・著 より引用
戦争体験談からは少し逸れてしまうかもしれませんが、最後にこの『短歌集 命の極み』を紹介させていただきます。
著者である田中祐子さんは、1928年の東京に生まれ、その後両親の離婚により広島に移住しました。そして1945年、16歳のときに被爆しました。
原爆の体験者が詠む短歌の数々。そこには当時見たものや聴こえたもの、感じたものの多くは語られていません。
ですが、そのような短歌からでも、原爆の恐ろしさや悲惨さを十分に感じられるのではないでしょうか。
戦争を知らない世代に強く訴えかける歌の数々によって、まるでその悲惨な光景が目に浮かぶように痛ましく感じられるはずです。
91歳の語り部として、強い訴求力をもって戦争を知らない世代へ警鐘を鳴らす短歌集。
戦争体験を未来に語り継いでいくことの重要性を知ってもらうために大きな役割を果たす一冊です。
戦争学習の意義を知ってもらうという意味で、若い世代と戦争について話す際のイントロダクションとして紹介することもできそうですね。
👉他の短歌も見る
91才の被爆者による、戦争を知らない現代人への警鐘を鳴らす短歌集
体験談から見える「戦争」を未来に語り継ぐために
ここまで、4人の戦争体験者の話をご紹介してきました。教科書や資料では伝えきれない“生の言葉”だからこそ見えてくる「戦争」が垣間見えたのではないでしょうか?
そこには、人々の生活を蝕む戦争の恐ろしさや理不尽さ、悲惨さがありありと表れていると思います。
そしてその「戦争」とは、過去のものではなく、今を生きる私たちにも深く問いかけてくるものでもあるのです。
体験者の言葉に耳を傾けることは、単に歴史を知ることではなく、「もし自分が戦争という状況下に置かれたら」を考えることにつながります。
戦争を語り継ぐということは、他人ごとではなく、“今ここ”にいる私たちの責任なのかもしれません。
この記事が、読んでくださっているあなたにとって、誰かと戦争について話すきっかけになれたらとても嬉しく思います。
今回ご紹介した記事の書籍情報はこちら
『ひたすら病める人びとのために(下)』大仲 良一・著
医療人として歩む。沖縄とともに歩む。家族と一緒に歩む。
沖縄県医療の発展に尽くした著者の半生を幼少期から振り返る――。
👉書籍ページはこちら
👉上巻の書籍ページはこちら
『ピカ・ドン(原爆落下)とマリリン・モンローを見た少年M)』今子 正義・著
今なお脳裏に焼き付く稀有な記憶を、生き生きとあざやかに描き出す――。
「小説より奇なる」真実の記録。
👉書籍ページはこちら
『テクテク琵琶湖渚を一周してみたら』原田 道雄・著
幼い頃に戦争を体験し、現在御年85歳。
病気に悩まされながらも、思いつきで「徒歩で琵琶湖渚を一周」計画決行!
👉書籍ページはこちら
『短歌集 命の極み』田中 祐子・著
91才の被爆者が詠む、原爆の悲惨さが生々しく心に突き刺さる――。
戦争を知らない現代人への警鐘を鳴らす短歌集。
👉書籍ページはこちら
ご自身やご家族の体験談を未来に残したい方へ
ここまで、戦争体験を未来に語り継ぐ重要性をひしひしと感じられる内容でしたね。
読んでいただいた方の中にも、ご自身の戦争の実体験談やご家族から聞いた戦争にまつわるエピソードなど、もっと世の中に知ってもらうべき話をお持ちの方もいらっしゃると思います。
ですが、どうやって世に周知するのか、というその手段はなかなか難しいものですよね…。
そこでその手段として紹介したいのが、自費出版です。
自費出版と聞くと、「描くのも大変そうだし、商業出版書籍と比べて流通も難しい」…そんな印象があるのではないでしょうか?
実は、今回ご紹介した書籍はどれも、幻冬舎ルネッサンスが刊行した自費出版書籍です。
皆さんと変わらない市井の人々が、「たくさんの人に知ってほしい」「体験を形にして残したい」といった想いを、書籍という形で創り上げたものの一部と言えるでしょう。幻冬舎ルネッサンスではこれらの書籍のように、想いを書籍として担当編集者とともに形にし、広く流通させることが可能です。
「未来に語り継ぎたい」そんな体験をお持ちの方はぜひご検討ください。
👉詳しくはこちら
今度は、あなたが書く番です。どんな体験も想像も、誰かの心を動かす物語になる。