第二章 終戦
1 熊本県への疎開
疎開
我が家のルーツと兄弟姉妹、子供たちのことを語り終えたところで、ここからは私自身のことを記して参ります。
時は、あの太平洋戦争末期の時代へとさかのぼります。
四季の変化が少ない南国沖縄でも、我が家の庭先には美しい花々が春を告げますし、夏には蝉の大合唱を聞くことができました。
畑の砂糖キビの穂が美しく波打つ晩秋には、渡り鳥のサシバが天空を舞うこの長閑な島にも、やがて風雲急を告げる戦さの足音が幼な心にも感じとることができる世相を迎えていました。
校庭の片隅では、藁で巻かれた丸太棒を敵兵と見做(みな)した竹槍訓練が行われ、我が屋敷の片隅には、敵機の空襲に備えて防空壕が設営されました。
サイレンの音響とともに、一目散に壕へと避難する訓練が行われるようになっていました。
そんなある日の夜半、まだ明けやらぬ真暗闇の中をたたき起こされました。母と弟らと一緒に部落の外れまで来ると、そこには多くの人々が集まっています。荷馬車には柳行李が満載されており、子供たちも荷台に積み込まれていきました。
そこで初めて、戦禍を避け内地への疎開に旅立つことを知りました。
大人の男は重い荷物を担ぎ、女は頭に載せて、長い道程を荷馬車の後をついていきます。東の空がやっと明るくなった頃、那覇の港にたどり着きました。
一九四四(昭和十九)年八月十八日、那加川丸にて賀数(かかず)部落の十数家族とともに、母と弟と私の三人で、祖母と叔母に見送られ鹿児島に向けて旅立ちました。
乗船した船は、にわかに改造した貨物船でした。二層式の居室は私たち子供でさえ直立できない高さで、まるですし詰め状態です。
そのような状態にありながら、そこかしこで船酔いのために嘔吐をする者が多く、その臭いと人いきれで、船内はまるで地獄の様相を呈していました。
敵の潜水艦からの攻撃を避けるため、奄美の島々伝いに目的の地、鹿児島港に着いたのは数日後でした。
この間、真夏の暑さにもかかわらず飲み水に事欠き、萌の食事に明け暮れた毎日で、港に上陸後、宿でいただいた握り鮨の味は忘れることができません。
そこからさらに汽車に揺られて熊本まで行きます。そしてようやく、異郷の地、浄蓮寺というお寺の一角での生活が始まりました。
熊本での生活
当初、世帯道具の持ち合わせがない疎開者のために、地域の方々が炊き出しをしてくださり、大変お世話になりました。幸いお世話をしていただいたお寺の次男坊の憲證君が私と同期で、すぐさま意気投合し、共に遊び学んだものです。
しかし、南洋諸島の戦況は日増しに悪化をたどり、ふるさとの沖縄も本土決戦への防波堤へと化し、疎開地の熊本でも空襲警報のサイレンが鳴り響きました。
戦争の足音は日増しに大きくなり、熊本といえども安心はできず、日常の生活にも大きな影響を及ぼしました。
田畑のない疎開者は、近隣農家の手伝いで日々の生活を送っていましたが、幸いなことに我が家は、母が和裁と機織りの資格を持っていたために、他の疎開家族に比べて重宝がられ、隣部落にまで請われて行くような状況でしたから、生活は比較的楽でした。
ただ、戦況がどんどん劣勢になるにつれて食料事情は日増しに悪化し、子供たちまで潮干狩りに駆り出されました。
有明海で、蛤(はまぐり)、赤貝、馬刀(まて)貝、浅蜊(あさり)などを掘り、それを蛋白源としました。さらに裏山で蕗(ふき)を採取し、田んぼの畦道(あぜみち)では芹(せり)を採集して飢えをしのいだものです。
桑の実や山の幸栗や紅色の茱萸(ぐみ)の実は懐かしいデザートです。
暑さの盛りに南国故郷を発ち、またたく間に冬を迎え、その備えが全くない状態でした。現地の子供たちは手袋に靴下をはき、防寒着をつけての登校でしたが、私たち疎開組は、にわかづくりの足袋と草履を履いて登校していました。
ある厳しい寒さの朝のことです。
私は数個の小石を拾い、枯れ枝に火を焚きその石を温めてハンカチに包みこみ、そっとポケットに忍ばせて登校したところ、数時間も懐かい炉(ろ)代わりに暖をとることができました。
窮すれば通ずで、赤く腫れあがった霜焼けの手を癒すことができたのです。
秋には小川で鮒(ふな)やドジョウをとり、稲の収穫後の落ち穂を拾い一升瓶に入れ、籾殻(もみがら)を脱穀するために子供たちが代わりばんこに木の棒で突き、玄米にして食したものです。
また、山で落ちた渋柿は軟らかく甘みがあり、デザート代わりで重宝していました。