第三章 沖縄での生活
1 何もかも失った沖縄
いきなり中学二年生になる
初等学校七年次に、六・三・三・四の新学制が制定され、兼城中学校二年次に編入することになりました。
本島南部には、まず県立知念高校が第一号で誕生し、次いで県立糸満高校が私が住んでいた地域の近くに設立されました。昨日まで小学生だった者が、いきなり中学生になり、しかも一年後には高校受験という状況でした。高校受験を目指してという切羽詰まった感じではありませんが、それでも徐々に進学に向けての環境作りが必要となりました。
しかし、熊本からの帰沖後の生活は、決して楽ではありませんでした。住むところも堀っ立て小屋から多少はマシなテント生活でしたが、夏は暑いし、雨が降るとテントに打ちつける雨音で、もう話もできない。台風がくれば吹き飛ばされてしまう。それでは勉強などできるはずもありません。
そこで、台風に備えて強固なトタン屋根の家を造ろうと、父が設計を始めました。資財も何もないのに頑丈な家にしようというのですから、家族一同呆れ返りました。無謀とも思われるような計画でしたが、米軍戦闘機の燃料を入れていた廃ドラム缶を、空港近くの瀬長島から一〇数個も持ち帰り、切り開いて板状に伸ばしたものを壁板代わりに張り付けますと、見事に頑丈な家が建ちました。
奇しくも、その年の秋口に猛烈な台風が襲来し、一〇〇戸近い賀数部落の大半の家屋が倒壊しましたが、我が家は被害を免がれ、近隣の方々を迎え入れ世話をすることができました。
台風の猛威
このときの台風は凄まじいものでした。正確な風速など分かりませんが、おそらく秒速七〇メートルはあったのではないでしょうか。
当時、母方の祖母が隣部落に住んでおり、心配になったものですから様子を見に行った帰りのことです。道を歩いていると、石が吹き飛んできました。これには驚きました。小石ではなく、人間の拳よりも大きな石で、直撃されたら一溜まりもありません。今のような舗装道路ではありませんから、道から次々に石が吹き飛ばされてきました。
怖い思いをしながら、ようやく家が見えたときには安堵しました。それほどの強風の中でも、家はびくともしないでちゃんと建っていました。
琉球王朝時代のお墓に入る
二〇一八年、琉球王朝時代のお墓が国宝に指定されました。玉陵(たまうどぅん)といいますが、首里にあります。戦後は、そこの玉陵の棺を納める入り口が全部開いていました。中学三年生の頃、そこの中まで入ったことがあります。今ではありえないことですし、ほとんどの方は体験していないことだと思います。王家のお墓の中に入ってしまったのです。
王家の棺の中には、石で作った大きな骨を入れる場所がありました。そこまで開けては見ませんでしたが、立派なお墓でした。
そういえば我が家のお墓も隣のお墓も、すべて口が開いていました。なぜ開いているのか聞いてみたら、防空壕に使ったということでした。
それで王家の人たちも、ご自分たちのお墓を防空壕代わりに使ったのではないでしょうか。そのような時代でした。
酒造り
衣食住に事欠き、皆が生活に困窮している折、現金収入への手っ取り早い手段として、親戚の人たちが集まって話し合い出した結果が、酒を造り販売するということでした。もちろん、正規の手続きなど踏んではいません。
当時は野放し状態で、すっかり雑草で荒れ果てた畑を回り、農家の皆さんが植えていた芋を掘り起こしてドラム缶一杯に煮つめます。イースト菌を混入し数日間発酵させ、試行錯誤を繰り返しながら蒸留酒製造に成功したときの大人たちの喜びようといったら、言葉ではなかなか表せません。試飲を繰り返し、顔が真っ赤になった大人たちの姿が昨日のことのように思い出されます。
米兵が使用した水筒に酒を入れ、七、八個ほどを、これまた米兵の背のうに詰め込み、小さい体に背負っては、あらかじめ注文を受けていた首里坂下の住宅まで、十キロメートルの道程をてくてく歩き届けることが少年たちの役目でした。
電気を引く
各家庭が石油によるランプ生活を余儀なくされている折、たまたま熊本の疎開先から一緒に引き揚げてきた伯父が、満州で電気関係の仕事に従事していたものですから、その腕前を発揮して、電気を各家庭に引く計画を立てました。そこで伯父は、戦争中に故障で放置されたトラックのエンジンや米軍が故障で廃棄した発電機を探し、修理をしました。
次は、送電には肝心要(かんじんかなめ)である電線の確保です。どうしたものかと思案をしている矢先に、那覇の壺屋地域に米軍の資材置き場があることを知り、私と中学の友人の何人かで、夕闇に紛れ込んで警備員の監視の目を盗み、侵入しました。
常習犯がいるとみえ、頑丈な鉄条網の一部が切り取られており、容易に出入りが可能な状態になっていました。
今でこそ時効ですが、当時は米軍の資材泥棒を“戦果”と称して、罪の意識はなく得意にしたものでした。丸く大きく巻き込まれた電線を各自で運び出し、暗い夜道を転がし、遠くから米軍のトラックやジープの灯りが見えるたびに道端の草むらに隠れては進み、賀数部落までおよそ八キロメートルの道程を、汗だくになりながら夜半に数個も運んだものでした。
伯父は大喜びで、早速若者たちが戦災で焼け残った枯れ木への配線作業を手伝い、座波と賀数部落に電灯がともりました。伯父は“電気屋のオジさん”と皆から喜び慕われ、感謝されました。
夜長、灯油の灯(あか)りのもとで高校の受験勉強に勤しみ、翌朝には鼻の穴がその煤(すす)で汚れていた少年たちも大喜びで、他の部落の人たちから羨ましがられたものでした。
家畜を殖やそう
多くの住民が戦禍の中を、時には屍(しかばね)を跨(また)ぎ逃げ惑い、生きとし生けるものすべてを食べ尽くした激戦地だった沖縄南部には、焼け残った草木のみしかなく、動物は皆無の状態でした。
熊本から帰郷した獣医の父は、致し方なく那覇の古波蔵(こはぐら)にある畜産試験場に勤めるかたわら、比較的戦争の傷跡の少ない離島の粟国島(あぐにじま)や渡名喜島(となきじま)を訪れ、その都度、つがいで動物を買っては持ち帰ってきました。
手始めに兎を持ち帰り、次いで鶏、そして子豚と少しずつ殖やしていきました。さらに山羊を飼い、我が家で繁殖させて近隣の農家の皆さんに分けて広げていきました。決して大袈裟な表現ではなく、沖縄南部一帯の家畜は我が家から広がり、父の功績は大きかったものと自負しています。
荒れ果てた田畑を再び開墾し、芋や人参、葱などの野菜を植え、やっと生活の糧(かて)が得られるようになった頃、ハワイの方々から沖縄に支援物資が大量に届き、同時に豚や山羊、馬も移入され各地に分配されました。
そうなると、獣医としての父の本来の役割が本格的なものとなり、多忙な毎日が訪れました。