と米や野菜等の騰貴、米を無心する者、食事だけ与えられることで奉公するつまり口減らしのため無給で働くこと、松の木の皮を松皮餅として食べている、食物の盗人が多いので奉行所も厳罰にせず追い払う程度で処理している、などと惨状を記録している。

なお金一切とは、金一分相当である。

宿守とは、参勤交代などにより留守の家を管理のため預かり、居住している家主をいう。

さらに同日記は、同年十二月のうち、

一、十二月上旬、道路倒死者、その屋敷主、五人組為立合、別而故障之筋無之候ハバ、其断申達、直々御人足、寺へ相葬候様被相触候事、是迄ハ、倒死在之、其屋敷主相達、御検使申受、御改侯上、御指図次第相葬へ候共、此頃寒気ニ而、数人倒死之ニ付、前段之御触、天明之通被仰出候事。

とも記録し、増えている行倒人の取扱を五人組の立合なしで、屋敷主のもとで葬ることにしたと伝えている。なお古老の話では、屋内での死亡者の弔いをする力が失われているので、ごろごろと転がして縁側から降ろし、敷地の片隅に埋めたという。

浮浪民、乞食、盗人、強盗が城下に満ち、空き家が増加。餓死者が増え、疫病が広がり、米価が高騰。備蓄米ばかりか五穀もなくなったので、領民は春、夏は野菜、山菜そして草の根まで食い尽くした。

また剥ぎ取った松の樹皮まで食べた。これを松皮餅と称し、剥ぎ取った樹皮を灰汁に入れた水で柔らかくなるまで煮た上、流水に晒し、細かく刻み臼でつき麦粉を入れ、蒸し団子や餅にしたものである。

このため街道の松並木の手の届く高さまで樹皮が剥がされ、白い木肌があちこちで見られたと伝えられている。

秋は、悲惨である。当然のことに草根もなくなり食べるものがない。領民は食物を求め城下に流入した。その途中で行き倒れる者。青白い顔でよろよろ歩き食べ物をあさり、盗みもした。

盗みに対し、村では厳しく盗人を殴り殺す、川に投げ入れる、村八分と称する村落の中から除け者にする私刑が行われていた。藩当局は、これらを見ぬふりをしていた。

領民ばかりでなく下級武士階級からも餓死者が生じていた。

しかし、上級武士は、広い屋敷に居住していて邸内に実のなる樹木や菜園があったので、飢えに至らなかった。果実の樹木ばかりか、植樹のあることが、その後の社の都といわれる景観を維持することになった。

市中ばかりか、田畑の少ない沿岸部では、餓死者が多かったという。

 

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