片側二車線の三条通りは、碁盤目の市街地を並行して走る他の通りよりも広い。「新舞鶴市街図」には、どの通りも同じ太さで描かれている。地図が作製された昭和八年の時点では、道幅は変わらなかったのだろうか。
『舞廠造機部の昭和史』に、三条通りは戦争末期に建物疎開が行われた、と書かれている。
「建物疎開」と聞くと、建物ごとよそに移築するようなイメージが浮かぶが、そのような穏やかなものではなく、空襲による延焼を食い止めるために、指定した家屋をあらかじめ破壊してしまうというものだ。
「家屋強制疎開」の紙を貼られた家の住人は五日以内に立ち退かなくてはならず、期限がくると、海軍陸戦隊や町内会の人々が柱という柱にロープをくくりつけ、強引に家を引き倒したという。更地になった跡地は、食糧難対策として畑地にされ、野菜などが植えられたらしい。
戦後に再開発も行われたのだろうが、現在の三条通りは、戦時中の建物疎開によって、結果的に道幅が広くなったのだろうか。
八島通りのアーケード街に戻った。先ほど歩いた時、土産物屋らしき店を見かけた。早々にお土産を買ってしまおう。
目当ての店は、地元産の酒類や食材が豊富にとり揃えられていた。マツタケ昆布なるものを手にとって見ていると、初老の男性店員さんが、それね、人気商品で全国から発送依頼がありますよ、と関西訛りの口調で話しかけてきた。
勧められたマツタケ昆布と、レトルトの海軍カレーを数品、東郷平八郎をモチーフにした東郷ビールと、海上自衛隊のエンブレムの入ったゴールデンエールをそれぞれ五本ずつ、自宅に発送してくれるよう頼んだ。