【前回の記事を読む】愛らしい手工芸品のようなこの古地図を頼りに、これより舞鶴をめぐる
東舞鶴 八月十二日
海軍の都
白糸浜神社は、「新舞鶴市街図」の表記と同じ場所、桜橋を渡ってすぐ左手の養老通り沿いにあった。古地図には、神社の南側の対面に「新舞鶴第一小学校」の表記がある。同じ場所は今、白糸中学校になっている。
鳥居の前で、リュックから絵はがきをとり出す。この界隈が新舞鶴という町名だった頃の、街中の景勝地の写真が裏面に貼付されている。旅に出る前に、神保町の古書店で見つけたものだ。

ビニールケースに入っていた五枚のうち、「舞鶴水交社」の写真の貼られた一枚は、おもしろいことに、郵便葉書として実際に使用された形跡があった。
舞鶴海兵団に所属する鈴木さんという方が、東京府下豊多摩郡戸塚村の柴田さんという方に宛てた御自身の近況報告が、流麗な達筆でしたためられている。「大日本帝国郵便」の切手の下に「牛込 42・4・5」という消印があり、これらの絵はがきは、明治四十二年頃に市販されていたものと知れる。
「新舞鶴白糸濱神社」と題された、神社を正面から映した絵はがきの写真と、目の前の実景を見比べる。鳥居と社殿の形状が写真と少し異なっている。鳥居の脇の石造の社号標は同じもののようで、裏を覗くと「大正二年十月建立」の掠れた文字が読みとれた。
手水舎で手と口を濯(すす)ぎ、無人の境内を社殿まで進んだ。賽銭を入れ、御鈴を鳴らす。手をあわせ、旅の充実を祈った。
今しがた東舞鶴の駅頭に降り立ち、駅前を東西に延びる三笠通りを東へ、南北にそよぐ与保呂川沿いのこの神社まで歩いてきた。駅からここまでは十分ほどだ。
途中に、三笠通りを起点に北へ走る通りを何本かすぎ、それぞれの道の先に直角に交差する辻を幾つか見渡した。駅の構内で見た市街図にも、与保呂川を越えたさらに東側一帯に、吾妻通りや厳島通りなど、古地図の表記と同じ名称の通りが南北に十本ほど延びていた。
軍艦の名を冠した通りが碁盤目状にめぐる空間は、軍都の発展とともに街が築かれた頃のままだ。神社の前の養老通りを北へ。養老橋の架かる通りを越えた右手に、瓦屋根の古めかしい家屋が連なっていた。
この一画は「新舞鶴市街図」に「警察署」とある。旧家から五十メートルほど行くと、萬代橋があらわれた。古の萬代橋の写真の載った絵はがきをとり出す。

川面に電柱と橋の欄干の影が滲み、袂の五人ほどの人だかりには幼い子供の姿もある。橋の中ほどを、着物姿の二人の女性が歩いている、モノクロ写真。