目の前の萬代橋は、中空に弧を描くアーチ仕様のものに変わっていた。石造の親柱だけは往古の風格がある。覗くと「昭和三十年九月竣工」の銅板がはめられていた。「新舞鶴市街図」には、与保呂川沿いの西側に線路が描かれている。
線路は新舞鶴駅を始点に、川沿いを北の港へ向かって延び、最北の海岸通りを左に旋回し、南北に走る五条通りの突端辺りで終わっている。中途に駅の表示はない。物資を運搬する貨物線だったのだろうか。
萬代橋を渡り、かつて鉄路が敷かれていた川沿いの歩道を気まぐれに往復してみたが、鉄道の痕跡はとくに見当たらなかった。
「新舞鶴市街図」は、東京の国会図書館に所蔵されていた原紙をコピーしたものだ。A3サイズほどの紙面に、同様の手書きの「中舞鶴町」、「舞鶴町」の市街図も併載されている。国会図書館に唯一保存されていた戦前の「三舞鶴」の地図で、用紙の端に「海軍検閲済み」の捺印がある。
古地図を探し出してくれた国会図書館の係員さんは、軍の施設があった街の地図ってまず存在しないですよ、秘匿されていた場所ですから、といっていた。この舞鶴の市街図はめずらしいものだと思います、とも。
舞鶴は、海軍の街だった。艦隊の根拠地となる、大規模な軍港のみに設置される海軍鎮守府があり、国産の駆逐艦の建造を一手に担っていた海軍廠工(こうしょう)、海軍三学校の一つといわれた海軍機関学校もあった。
明治二十二(一八八九)年、日本政府はロシアのシベリア開発の脅威を受け、ウラジオストック軍港に対峙する日本海側に軍港の建設を企図した。湾口の狭さに比して、湾内域が広く、水深も深い、舞鶴港に白羽の矢が立った。
ほどなく日清戦争開戦の情勢となり、佐世保軍港の建設が優先されたため、舞鶴軍港は明治三十四(一九〇一)年十月にようやく竣工した。同じ年に海軍舞鶴鎮守府が開庁し、舞鶴造船廠(後の舞鶴海軍工廠)も湾口に創設された。
外来の海軍関係者の居住域とするために、新たに築かれた街が、新舞鶴だった。鎮守府、工廠、機関学校などの軍の枢要の施設は、新舞鶴から二キロほど西の中舞鶴に所在した。
田辺藩ゆかりの古の城下町である舞鶴町とあわせ、新舞鶴町、中舞鶴町、舞鶴町は「三舞鶴」と称された。昭和十三(一九三八)年八月の新設合併で、新舞鶴町、中舞鶴町、近隣の三村が統合され、東舞鶴市となり、舞鶴町も市政が施行され、舞鶴市となった。
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