【前回記事を読む】アメリカになくて、イタリアにあるもの。殺伐として不愛想なニューヨークを離れ、イタリアの土を踏むと......
2 60年代のイタリア 地上の楽園 サレンモ
青春の始まりはサンレモから
「地上の楽園って、こんな感じかしら?」
口数の少ない姉は、うっとりとしたように呟きました。眼下に広がる街は、一面夕焼けに染まっていました。
その頃の日本は、高度成長の波に乗り、東京は煤煙や排気ガスが蔓延していました、汚れた大都会を逃れて、私たちは地上の楽園にたどり着いたのだという感慨が、姉の口調には込められていました。
姉とサンレモの地を踏んで以来、私はずっとイタリアに魅せられ、それ以後、頻繁に訪ねることになります。
私はやがて、ハワイのホノルルからニューヨークベースに移籍しました。ニューヨークから、ローマ─テヘラン─ローマ─ニューヨークという一週間のフライトが、月に二回組み込まれていて、このラインを選ぶと、ローマに四日間のステイになります。
私はニューヨークベースで六年半も飛んだのですから、イタリアは第二の故郷といってよいほど、愛着のある国なのです。パンナムでは、CAが好きな航路を選んで飛ぶことができたので、私は多くの場合、ローマ航路をビッドしました。
ホノルルをベースに飛んでいた頃はほぼ毎月東京に飛んでいたのが、ニューヨークに移籍してからは数ヵ月に一回くらいになりました。
「イタリアに好きな人でもいるの?」と聞く母に、私は笑って否定しましたが、正直言って、イタリアがなぜ私を虜にしたのか、明確な説明をするのは難しいのです。確かにグルメもショッピングも私の好みにぴったりで、いつも満足させてくれました。
セピア色の街並みも私の気持ちを落ち着かせてくれました。そして、そこに住む人々も気さくで親しみやすく、私の気に入るところとなりました。
1968年頃のイタリアでは、日本人はまだ珍しく、ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアといった観光地以外では、東洋人の顔を見ることは稀でした。
滅多に日本人に会わないイタリアは、私にとって孤独を感じると同時に、開放感を満喫できる異国でもありました。