【前回の記事を読む】きっかけは一人の医師の逮捕だった。当時の正直な感想は「これでは手術などできなくなる」。――医療事故調査制度創設までの軌跡。
初版序文
はじめに
肉体的にも精神的にもハードな状況で、よくぞ走り切ったと思う。振り返ってみれば、それでも医師への途を選んでくれた子供たちへの想いを避けて通ることはできないであろう。
われわれ夫婦の姿を見て育った子供たちが医師という職業を選んだことを悔いる日が来るのは、痛恨の極みである。われわれ世代の安易な対応が、次世代の医師の生き甲斐を奪ってはならない。子供たちの将来あったればこそ、ここまで頑張れたのかもしれない。
本書は、医療事故調査制度創設の趣旨が将来誤解されることがないよう、また、あらぬ方向に誘導されることがないよう、医療事故調査制度創設に至る経緯を後進に引き継ぐために著したものであり、鹿児島市医報に連載された「シリーズ医療事故調査制度とその周辺」に加除修正を加えてとりまとめた。
四病院団体の一角である日本医療法人協会の医療安全部会長(旧医療安全調査部会長)として奮闘し、やっと一定の成果を得て一区切りついた筆者が、筆者個人の目で見てきたことを書き綴ったものである。
医療事故調査制度の趣旨、創設の経緯について、本書がいささかでも医療現場の、また、後進の参考になれば幸いである。
2023年(令和5年)11月11日、鹿児島県医療法人協会設立60周年記念講演会で、橋本岳衆議院議員が鹿児島を「事故調の聖地」と呼んだ。実際、医療事故調査制度は、鹿児島でさまざまな進展があった。
大坪寛子医療安全推進室長が、医師法第21条について、「外表異状」と発言し、同時に、本制度のスイッチを入れる(センター報告判断)のが管理者であることを明確にしたのも鹿児島の講演会である。