【前回の記事を読む】絶対に口にしないと決めた揚げ物――やってきたのは串揚げのお店だった。「苦手なものがあるなら教えてね」彼の言葉に栞は…
アザレアに喝采を
Ⅱ 恋の歓び
翌日仕事の後で待ち合わせをしたが、谷口は時間に遅れるということがない。いつも忙しいはずだから、たとえ谷口が遅れてきたとしても、どれだけでも待つつもりで待ち合わせの場所に向かうのに、時間の少し前には谷口は現れる。
忙しい中でも時間の管理がしっかりとできる人なんだわ、と谷口の生真面目(きまじめ)なところにも好感を持つ。
谷口が向こうから足早に歩いてくる姿が見えただけで、栞の表情は自然とほころんだ。
「栞ちゃん、急に誘って悪かったね。今夜は美味しいお鮨でも御馳走させてよ。このすぐ先にあるんだ、天光鮨ってお店、きっと知ってるよね? 人気の店だから混んでるだろうなぁ」
二人は飲み屋街の一角にある鮨屋に入った。飛び切り極上の豊富なネタをお値打ち価格で提供してくれると評判のその鮨屋は大層人気で、いつも店内は近隣で働く多くのサラリーマンでごった返している。
その店は栞も会社の忘年会で行ったことがあったが、団体客の利用が多くて騒がしいので、隣に座る谷口とも声を張り上げるようにして話さなければならない。
栞は谷口と一緒にいられればこの喧噪さえも好ましくて、なんだか可笑しく感じられるくらいだった。谷口は好物だという鰺と中トロ、栞はイクラと巻物をいくつか食べると早々にその鮨屋を切り上げた。
「あんなに騒がしかったらゆっくり話もできないね、栞ちゃん、ごめんね、もう少しどこかで飲み直さない? まだ時間大丈夫?」
谷口の案内で、二人は近くのバーに立ち寄った。
地下に続く薄暗く狭い階段を下りていった先には重厚な趣の扉があって、小さく「masquerade(マスカレード)」と店の名前だけが記されたプレートが掲げてある。背の高い谷口は天井に頭がつかえないようにと前かがみになりながら階段を下りる。
その後ろ姿はちょっと滑稽でありながらも谷口の背の高さを証明するようで、それは以前から栞の好む仕草だった。
「毎日通る地下鉄の駅の側なのに、こんな所にバーがあるなんて知らなかったわ」
「そうでしょ、この狭い階段の先に店があるとは思えないよね」