【前回の記事を読む】過去の全ての経験をもとに自らの生涯に奇跡的調和がある事に気がつく。フローベールが到達した新しい世界観とは…

第一部フローベールの芸術的出発    ―初期作品を読む ―

5.『初稿感情教育』にみる芸術観

「……生活は彼に偶発的なものを与え、彼はそれを動かしがたいものにする。人々が彼に差し出すものを彼は芸術に与える。全てが彼をめざして押しよせ、彼から又流れ出る。……全ゆる要素に分けてゆきながら全てを自分に関係づけてゆく。そして、才能をたのみ労苦を惜しまず、芸術家としての天職、使命の中に自己実現してゆく。果てしない汎神論であり、それが彼を通って再び芸術の中にあらわれてくるのだ。」

ここに彼はあの現実の汎神論的体験では決して得られなかった真の持続的エクスタシーを知る。それは自然への自己喪失、拡散のうちにではなく、想像=イマジネールの世界での芸術的直観とも呼べる幻像の世界に広がる。

芸術家の仕事だけがこれをしっかり捉えて再現する事ができる。フローベールは作品の主人公達に、自分がかつて体験した自然への融解のエクスタシーを、あるいは青少年期から彼の魂をみたしていた言葉にならない詩想の高揚感を付与する。

が、いずれも人物達は一時的にこのエクスタシーを体験するだけで、その体験によって真に幸福になるのでもなく、そこから新たな世界へ雄飛していく事もない。それは真のエクスタシーが芸術家として生きる事のうちにしかないとフローベールが確信しているからである。

1章でみたように、芸術家ジュールとさ程遠くない詩人観をめざしたスマールが「自然を我がものにした後、僕は人の心を、世界の次には無限を我がものにしようとした。その為僕は底なしの深淵におち込み今もそこで転げ回っている。」という嘆きに陥ってしまうのは、この世界の調和、己の魂にあふれる詩情、想像の世界を、表現、言語化しえないと絶望したからであった。

ジュールは世界全体の調和という哲学の下で、文体研究にとりかかる。

「彼は観念(イデidée)の誕生と同時に観念が溶けこんでいる形式(formeフォルム)とを観察し、観念と形式の相応(ふさわ)しいパラレルな展開を見出す。そこには精神が物質に同化し、物質を精神そのもののように永遠化する神々しい融合がある。」

彼は、変化に富みながらも全体の調和を保つ優れた作品を生み出す原則を求める。しかし、至高の原則として〈形式〉があるのではなく、作品の独自性をつくるのは、個々の具体的個人的〈形式〉であり、又それにふさわしい〈形式〉をもつ〈観念〉である事を知る。