【前回の記事を読む】聖母的女性とヴィーナス的女性。清純無垢と快楽追求。肉体的接触への禁止と情熱――フローベールが傾斜したふたつのエロスとは
第二部フローベールにおける〈両性具有(androgyne アンドロジィヌ)〉の問題 ―『サラムボー』を読む ―
1.フローベールにみる女性神話
L・グジバは女優や娼婦・姦通する女等モラル的に堕落した女性へのフローベールの偏愛と年上の父性的存在によって嫉妬させられる青年の恋=エディプス的三角関係の欲望に注目し、堕落した母性のイメージとして溶け合う聖母マリアとヴィーナスの混淆(こんこう)を指摘している。
そもそもこの二つの傾向は一つのものの両面とも言える。その肉体が不可侵の聖母マリアのイメージであろうと、エロス追求のヴィーナスのイメージであろうと、導き出される女性観はともに女性への恐怖・畏怖の念と限りないエロス・欲望である。
それはすでに『狂人の手記』に描かれた恋の図式でもある。その名前が象徴するようにマリアは最初子供に授乳する神聖な母性として現れ、同時に〈ヴィーナスが台座から降りて歩き出したかのような〉衝撃を与える。
その驚嘆・神秘的感動は肉欲とは遠く、ただ傍(かたわ)らにその人の存在を感じ、その眼差し、その声に酔いしれるだけである。が、その内的幸福・恋心を打ち明けるにはあまりに内気だった主人公もやがて、彼女が夫と過ごす家の壁を見つめ淫らな想像に陥り夫を嫉妬する。
「僕は彼女の夫、陽気で卑俗なあの男の事を考えた。すると最も忌まわしい想像図が浮かんできて、この上ないご馳走に囲まれながら檻の中で餓死させられる者のようだった。」
肉体を嫌悪すると同時に呑み込み貪り尽くしたいという激しい愛の欲求はフローベールにおいて、このようにしばしば食欲による比喩表現となって現れる。
J・P・リシャールが食欲、転じて全(あら)ゆる貪欲さに対する絶えざる消化不良、その内的脆弱さを指摘したように(1)愛の対象を呑み尽くす消化の失敗は、結局永久に充たされない欲求不満となって愛の不毛に行き着いてしまう恐れを孕んでいる。『11月』の中で主人公はマリーとの交情の後、次のように言う。
「あんな事にすぎなかったのか、恋をするとは! あれだけのものだったのか、女とは! ああ、何故僕達はたらふく食べた時にもなお空腹を覚えるのか? こんなに渇望しているのに何故失望するのか?」
が、別れるとすぐに〈最初気づかず探り出せなかった何か〉があるように思い再び女に会いたくなるのである。食欲=愛欲のこの絶えざる渇望と失望の繰り返しが示すようにフローベールにとって現実の人生とは常に不満・不全にならざるを得ない。