【前回の記事を読む】十四歳で統合失調症と診断されてから、警察沙汰になったこともあった。医師の提案で、家族と離れ別々に生活していくことに。

第一章 靴

【 二 】

奥側の椅子に座っていた一人が、私に気付いたのか、手を振って話し掛けてくる。

靴を脱いで端に寄せ、受付に立つ。障害者手帳や健康保険証、お薬手帳等々、必要な物を詰め込んだケースを取り出す。

「こんにちは、佐々木さん」

受付の女性は、ぱっと顔を上げてこちらを見る。いつでも穏やかな表情で接してくれる佐々木さんだ。

「あ、夏春さん。よかった。今日中ってことでは間に合っていますよ」

「すみません、昨日、変な時間に寝てしまって」

「いいんです。先生も分かっておられるでしょうから」

「ありがとうございます」

礼を言ってから待合の椅子へ腰掛けようとすると、佐々木さんが何やら手招きをする。「待って、今ちょうど、前の順番の人が診察を終えたところです。すぐに診察室に入れます」

「分かりました」

軽く頷いて、私は離れの診察室に歩いて行く。

母屋とは別棟の診察室は、以前ここを使っていた人が、がらくたを収めて置いておいた物置と兼用されているせいで、遠くから見ると診察室には思えない。でも患者や私にとって、ここはとても大切な場所である。

事務員の手で整頓された書類が並ぶ分厚い机。離れと受付とつなぐ電話のかたわらに、受話器の子機が置かれている。

「こんにちは、先生。今日は遅くなってしまい、すみませんでした」

診察室に入ってすぐ頭を下げると、椅子に腰掛けていた山本先生が立ち上がる。こちらへ歩み寄って来て、私の手を握ってくれた。

黒縁の眼鏡を掛けたグレーヘアの先生は、どこにでもいそうな、心根の優しい医者という印象だ。どんな人の話も遮らずに最後まで聞く度量を持っている。

「いいんですよ。ちゃんと電話で伝えてくれましたね。悩み事があって、眠ってしまったのだと」

先生に勧められて、私は椅子に座った。どっしりして重厚で、座り心地のすこぶる良い立派な椅子である。一方、先生はと言えば、どこにでもある、簡素な造りのワーキングチェアに腰掛けている。

「……はい。そうなんです」

思わずため息をつく。こらーる岡山診療所の敷地はとても閑静で、ほっと息を継げる安心の空間だ。