12月1日(火)
片方しか選べない

午前中、私の選択が誤りだったのではないかとの思いに、苛まれた。「がん研」なら“癒着”に対してもっと万全だったのではないか。回避する手立てはなかったのか。

そもそも11月9日の退院予定が13日に延びたのも、イレウスの予兆であった。18日に再入院し、26日退院の予定が前日25日に苦しみが襲った。

18日からの1週間は何をしていたのか。「がん研」ならもっと手際が良かったのではないか。

良子に余分な苦痛を与えたと思い、私は苦しかった。

夜、良子を訪ねた。

「がん研 有明病院」であったなら、このように毎日来ることは無理であったろう。退院後の通院も負担になる。「みなと赤十字病院」は自宅から車で10分弱である。選択として十分な理由であった。

そして「がん研」ならイレウスが起こらなかったとどうして言えよう? いずれにせよ人は、「どちらかを選ばなければならない」。そして選ばなかった片方が今より良かったとは、検証しようがないのである。もう一つの人生はないのだ。

良子に笑顔があった。「お通じがあった」と言って親指を立てた。食べていないのだからウンコが親指ほどなのも当然と思った。

「良かったね」と私は言った。

食事は重湯、コンソメスープ、キャロットスープであった。半分以上残していた。

「ゆっくりいきましょうと先生は言っている」
「そうだ、ゆっくり行こう。持久戦や」

エレベーターまで良子は送ってきて、手を振った。

12月2日(水)
友と

今日は昼食を友と一緒にした。

直接血のつながりはないが(何代か前にはあったのだろうが)、60年を超す付き合いである。この歳になってもお互いを名前で呼ぶ。私のことを「よしちゃん」という。私は相手を「やすさん」と呼ぶ。名が安である。

やすさんは一昨年の8月に奥さんを亡くした。それ以前に長い看病期間があった。

「良子がこんなことになって、やすさんのことを度々思った。こんなことにならなければ分からなかった。自分が体験してみないと分からないね」

やすさんの奥さんは病気の問屋のような人だった。腸閉塞も何度も起こしていた。膠原病も持っており、冬期には指の感覚がなくなった。今日初めて知った病名であるが、真珠腫性中耳炎というのもやったそうである。

一度で取り切ることができず半年ほどおいて2回でやった。

「いくらのようなものがいっぱい出てきた」とやすさんは言った。

あまりの長湯を不審に思い、覗いてみると倒れていた。意識は戻らず、数カ月後に息を引き取った。二人に子供はなかった。