【前回記事を読む】この件を最終判断した役員は「ウチの会社にもあっていいよな」とつぶやいた――鉄道会社として初めて認めた兼業は「選書」だった

第六章 ひとりひとりの、小さな旅立ち

扉の開く音が聞こえた。ロマンスグレーの髪、カーキ色のリネン・ジャケットを羽織った男性が、慣れた動きで若夫婦のとなりにすわる。

「何年ぶりかなぁ……あなたがアッちゃんですね。私は、紀野といいます」

タエさんが厨房から顔を出し、笑顔をひろげて紀野さんにお辞儀をした。お久しぶりです。

紀野さんも、手を挙げて応える。タエさん、ぜんぜん変わらないね。

かつての常連らしい男性が、酒棚を眺めてアッちゃんにオーダーする。

「私はいつも、C.C.ソーダ*1なんですけど、いいですか?」

「もちろんです。どうぞよろしくお願いします」

アッちゃんが、ゆっくりとクマくんに近づいてささやく。シーシーソーダって、なんだ?

検索マスターは、すでに探し当てていた。

Keiさんは、思い出す。そういえばネイビーが、みんなと話の合いそうな、むかしの常連にも声をかけておくよと言っていたっけ。クマくんとアッちゃんのやり取りを隠すかのように、Keiさんは〈Patina〉のレジェンドに、ゆっくりと頭を下げた。

14時25分:成田発JAL8200便が、陽炎の揺れる大地を離陸した。ネイビーはこれから、メキシコシティ経由でコスタリカ・サンホセへ向かう。サンホセからさらに北へクルマを三時間ほど走らせ、世界遺産グアナカステ保全地域で活動するナジャー夫婦と、半月過ごす。

その後は、彼らと一緒にロサンゼルス経由でタヒチへ行く。モーレア島のナジャーは、さらにネイビーと福岡・糸島へ同行する予定だ。新しい同僚たちは、それぞれの地を訪れ合い、お互いの信頼関係を育んでいる。

日本では、参加生に自身の経験を混ぜ合わせてくれる、各地の事業家とも親交を深めた。

10月からは、水曜夜の〈Patina〉で、月2回のテストプログラムがはじまる。

旅する男は、トランジットを含めて30時間以上になる移動に備え、空港ラウンジのシャワー室で紺のルームウェアに着替えていた。

ボーイング787が、直線的な上昇から、大きな旋回に入る。機体が傾き、左肩の先にある窓の景色が、夏の陽を浴びる海だけになった。未来への期待を誘うブルーオーシャン。ただし、その輝く水表を突き破ってディープに潜れば、そこには豊饒なネイビーブルーの世界がひろがっているはずだ。

眼を閉じると、瞼の裏は濃紺の色感になった。そのなかに、〈Patina〉の仲間たちが次々とダイブしてくる。タエさん、吉岡兄弟、リョウコさん、アッちゃん、ジョージにシュウト、最上さんや清野のオッチャン……最後に大きなクマくんが飛び込んできて、視界が揺れた。ネイビーは眼尻の笑い皺を深くして、唇の動きだけでつぶやいた。

……あと、頼んます。

謝辞

本書の出版に関して、会社勤め以来、様々なアドバイスをいただいているBATON WORKS 嶋本達嗣氏、セミナーやワークショップで、働き学ぶ多様な実態を教えてくれた受講生や、想いをいただいた経営幹部の皆さん、シーン着想の元になったいくつかの酒場と仲間、そしていつもおいしいつまみを作ってくれる家族に感謝します。

また、はじめての個人出版をサポートしてくれたパブフル菱沼拓氏、キンコーズ榎宮元気氏にも、大変お世話になりました。ありがとうございました。

2023年5月 中村隆紀