そのため、この仏像は日本で作られたことは明白であるが、作者が分からないなどミステリーに満ちた仏像である。私は約六〇年前に百済観音に初めて出会い、その後何回か拝顔しているが、いつも、ほっそりとした立ち姿に見とれて、引き込まれそして感動する。このような気持ちは私だけが受けているのではない。多くの文人たちも、この仏像から素晴らしい感動を貰っている。
例えば、哲学者で文筆家の和辻哲郎氏は述べている。
「あの円い清らかな腕や、楚々として濁りのない滑らかな胸の美しさは、人体の美に慣れた心の所産ではなく、初めて人体に底知れぬ美しさを見いだした驚きの心の所産である。あのかすかに微笑みを帯びた、なつかしく優しい、けれども憧憬の結晶のようにほのかな、どことなく気味悪さをさえ伴った顔の表情は、慈悲ということのほかに何事も考えられなくなったういういしい心の、病理的と言っていいほどに激しい偏執を度外しては考えられない」と。(『古寺巡礼』 岩波文庫)
百済観音は日本人だけでなく、世界中の人々をも魅了している。一九九七年にはパリのルーブル美術館で百済観音の特別展示が行われ、いろいろな国々からきた見学者からも日本のヴィーナスと高く称賛されたのである。
洋の東西と言われるように、百済観音像が東洋文明に由来する話であるならば、次に取り上げる「アダムとイブ」は西洋文明に由来する話である。キリスト教は西洋文明の根幹を形成している。キリスト教の正典は聖書(旧約聖書と新約聖書)である。
旧約聖書の創世記第一章の中に、神の言葉として「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」と書かれている。これは、人間(男・アダムと女・イブ)の姿そのものが、神に匹敵する素晴らしい姿形をしていることを示唆している。
ドイツの有名なルネサンス期の版画家であるアルブレヒト・デューラが、一五〇四年に作製した銅版画「アダムとイブ」は有名である。図1‐3に示すこれら男女の直立した姿に、西洋の人々も究極の理想像を見出しているようである。

(写真提供 ユニフォトプレス)
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