三、母と叔母の女手三人が家計を支えた

一九四三(昭和一八)年。棚橋家は、京都市下京区南衣田町に住んでいた。

家族構成は、祖父(五五歳)祖母(四七歳)、母(二九歳)、T叔母(二二歳)、Y叔母 (一七歳)、私(七歳)の六人で暮らしていた。

祖父母を中心に家族は互いに助け合いながら強い絆で結ばれていた。

私の父親は、幼い頃に亡くなり、祖父は目の病で無職。

棚橋家の家計は、母と二人の叔母の女手三人の収入で生計をたてていた。二人の叔母は、大手会社に勤務していた。

母は、美貌で派手な性格だった。若い頃から社交ダンスが好きで、それを職業として京都の歌舞練場のダンスホールでダンスの師範をしていた。

当時、社交ダンスを楽しむ層は、軍の上層部か富裕層に限られていた。

当然、男性との接触が多くなり指名も多く人気者だったそうだ。心づけ(チップ)もたくさんもらったと聞かされていた。水商売的な職業だけに母が一番棚橋家に貢献していた。