【前回の記事を読む】親子くらい年齢が離れている日本語を流暢に話す小柄なインドネシア人の男性。仲良くなり「パパさん」と呼ばれるように
第二章 シルバー留学
インドネシア大学で出会った人々
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初級の授業が始まってしばらくした時、他のクラスにいる私より年配の日本人男性が気になった。体格が良く、いつもアイロンのかかった長袖のシャツに淡い色のジャケットを着ている。確か、オリエンテーションの時見かけた男性である。
十時半から十一時の休憩時間に話しかけてみたら、午前中BIPAの授業に出て午後からジャカルタの会社に出勤しているという。そのうち、授業が終わったあと、時々、一緒に食事に行くようになった。
ちょうど私より一回り、十二歳年上で、若いころ化学系商社の木材部門に在籍し、カリマンタン(ボルネオ島)に駐在していた。定年後、日系自動車部品会社のインドネシア法人の社長をし、その後、タイに本社のある華僑財閥のインドネシア法人会社の社長をしていた。
インドネシア勤務が長かったので、日常会話はある程度できるが、きっちりと文法も勉強したいと思って、自費でBIPAに入学されたとのことである。
やはり年齢だけに文法や読解などは苦労されていたが、それでも全く卑屈になることなく自分の勉強のためだという信念で堂々と授業に出ておられた。私なんかは試験に合格できなかったらどうしようかと心配していたが、彼はできなくても「また、先生に注意されちゃったよ」と言って、笑い飛ばしていた。
その姿を見て、私は少なからず勇気づけられた。最近はあまり見かけない豪快な方で、話していて心地良かった。
彼は日本人以外にもインドネシア語で気軽に話しかけ、人脈を広げていく根っからの営業マンで、私は彼の才能をうらやましく思っていた。彼も私の生き方に共感し、在学中は夜もジャカルタで一緒に食事をすることも多くなった。
私がスラバヤで就職してからも、時折、仕事の状況について電話を下さり、インドネシアでの仕事を気にかけ、いろいろアドバイスをしてくれた。また、彼がスラバヤに出張してきた時は、わざわざ工場まで来て、自身の経験を活かし、5S(整理、整頓、清掃、清潔、躾)について指導をしてくれた。