【前回の記事を読む】【司馬遼太郎と読書】司馬遼太郎の速読術の源は、対立した教師? 二人の関係を読み解くと見えるきっかけ―
第一章 司馬遼太郎の育った庭
一 上宮中学校
英語の先生のその後
たまたま欠勤しただけなのか、それとも、すでに上宮中学校を退職していたのかもわかりません。
いえることは、昭和十六年の十二月以降、先生の姿は学園の写真資料からは完全に消えてしまったということだけです。戦後の上宮学園の記録にも先生の名前はありませんから、戦後、学園に復帰した可能性はないようです。
先生の姿が学園から消えた理由で考えられるのは、昭和十六年以後、軍隊に召集され、その後どこかの戦地で戦死された可能性です。当時、一般成年男子の召集年齢は四十歳までと決められていました。先生の年齢は写真などから推測すると、三十代半ばくらいだったように見えますので、太平洋戦争開戦早々に召集され、戦死していてもおかしくありません。
先生は卒業アルバムの数枚の写真と司馬さんに忘れられない強烈な記憶だけを残して忽然と消えてしまいました。まるで、司馬さんに試練を課して御蔵跡図書館にいざない、そして全蔵書読破や速読術、独学独思などに導き、小説家になる最初の道筋を示したようです。
芦名先生
初めて司馬さんが上宮中学で芦名先生と会った時、芦名先生は教師歴十五年くらいのベテラン教師でした。『芦名先生』の中で司馬さんは「中学の一年、二年のときに国語を教えていただいたのは、芦名信行先生である。ひどく蒲柳のかたでお顔のおだやかな、ちょっと地蔵さまを細おもてにしたような感じのかた」とその印象を書いています。1

芦名先生