【前回の記事を読む】【ギリシア遺跡】アテナ・ニケ神殿。ここには、「息子が死んだ」と思って身を投げて死んだアテネ王アイゲウスの伝承が…

II 遺跡ガイド

1. アテネ市内とピレウス

アクロポリス

〇パルテノン神殿

なお、奥室はパルテノン(パルテノイ:処女の間)と呼ばれ、それがこの建造物の名称の由来となったと考えられています。パルテノイとは、パンアテナイア祭において、アテナ女神に献じる上衣(ペプロス)を織る重要な役割を演じたアテネの上流家族の少女らのことです。

ただし、前5世紀の公文書には単に「殿堂(ホ・ネオス)」あるいは「大殿堂(ホ・メガロス)」と呼ばれており、前4世紀以前には常用される名称ではなかったようで、前4世紀の弁論家デモステネス(弁論22番13節と76節)に見いだされるのが最初の例です。

また、この部屋もパルテノイにあてられていたのではなく、実際は宝物などを保管していたところであろうと考えられています。

つまり、神殿はいわば金庫のような機能を果たしており、中にはさまざまな高価な聖財が保管されており、このような祭神像や内部構造から、「パルテノン神殿」と呼び習わされているこの建物は、本来の意味での神殿であったかどうかは疑わしいようです。

特に、神殿に不可欠の祭壇を欠いていることや、専門の神官の不在などは、この建物が神殿の姿を取ったモニュメンタルな宝物庫であったことを強く示唆しているとされています。

パルテノン神殿は、ローマ時代までその姿をとどめ、中世にはキリスト教会として、さらにはオスマン帝国の占領下に入ってからはイスラムのモスクとして余命を保ってきました。

しかし、1687年にアクロポリスを包囲していたヴェネチア軍の砲撃により、火薬庫として使用されていたパルテノン神殿は爆発して吹き飛び大きな損傷を受けました。19世紀に始まった修復作業は現在もなお続行中です。