【前回の記事を読む】【ギリシア遺跡ガイド】アテネ市内、アゴラに遺る跡…メトロオン、トロス、牢獄跡など、写真付きで解説!

II 遺跡ガイド

1. アテネ市内とピレウス

アゴラ

〇ソクラテスの小像

牢獄跡で発見された大理石の小像は、ソクラテス像の可能性が推測されています。

 
 

 

コラム『ソクラテスの死』

ソクラテスは、前399年、瀆神(とくしん)罪である「国家の認める神々を認めず、新しい神々をもたらし」、さらに「青年たちを堕落させた」として政治家アニュトスに告発されました。しかし、ソクラテス裁判の背景には、当時のアテネの政治状況がありました。

当時アテネは、ペロポネソス戦争の敗北後に生まれた、スパルタの傀儡(かいらい)政権である「三十人僭主」を倒した民主派勢力が国家の主導権を握っていました。

彼らの中には、敵国スパルタに味方してアテネを敗戦に導いたアルキビアデスや、「三十人僭主」の主導者であったクリティアスの師と見なされていた、ソクラテスを糾弾する動きがありました。こうした政治状況の中で、裁判は開かれました。

当時の裁判は、原告・被告両方の側からの主張が審理された後に、被告が有罪かまたは無罪かの投票が秘密投票で行われました。

陪審員の間の正式な協議は行われず、法廷の判決は単純な多数決で決定されました。有罪の場合、次にその罪の重さが決められました。

ソクラテスの発言は、陪審員の怒りを買い死刑を宣告されました。彼は死に臨んで、従容(しょうよう)と毒薬をあおったといわれています。

〇アグリッパの音楽堂 

前1世紀の後半に、新たに「ローマ時代のアゴラ」が建設され、アゴラの景観は一変します。ローマ人がアゴラに築いた最も印象的な建造物が、広場の中央に設けられた「アグリッパの音楽堂」です。前15年頃にローマの将軍アグリッパが寄贈したもので、約千人収容できる巨大なコンサートホールでした。

その後、2世紀半ばに大々的に改修され、その際に、音楽堂のファサードを飾る「トリトンと巨人の像」が作られました。