【前回の記事を読む】母は、精神病の父に離婚を迫った…母には男がいたのだ。この人は母じゃない、単なる他人だ。女だ。いやメスだ
一、
たまたま久留米市内にある月星ゴムという工場に学校の見学があり、工場の近くの通りで偶然、女は知っている学校の先生を見つけた。私の学校であると分かったのである。
私を見つけた女は私に近づいてきた。女は私に百円玉を渡そうとしたが、私はそれを拒否した。その時、私は口には出さなかったが「他人からお金をもらう筋合いはない」と思っていた。
私の拒否行為は女にとってはかなりショックであったらしい。女は、私が自分に一番なついていて、自分のことを今までと変わりなく慕っているであろうと思っていたのだ。
後日、父に猛然と抗議したらしい。
「あんたが、こうちゃんに変なことを吹き込んだんでしょう」と、女は泣き喚(わめ)きながら言ったという。
私は、父からその話を聞いた時に「自分がしたことが分かっているのか」と思った。
私は父があの女に未練があるのがかなり不快であった。なぜあんな女をスパッと切れないのか、私には理解できなかった。
単に貧乏というだけで我が子を捨てるなど、もしそれが人間の弱さで当然であるならば、人間に生きる資格など絶対に認めない。虫けら以下の存在などさっさと滅べばよい、と。
けれど、私の当時の年齢でそのようなことが考えられるわけがない。これは一般の視点の考えであった。
「おかあさんがいなくて寂しくないの?」
この手の月並みな質問の多さに閉口した。
「いや、何ともない」
私の答えに誰もが怪訝な顏をする。私にとって、この問答ほど不快なものはなかった。子供は母親になつくのが当然と思っている周囲の人間に対して、私は考えるのも不快なほどの蔑(さげす)みを覚えた。
「あなたには、まだおかあさんの気持ちは分からないのよ。人生には色々あるのよ」
この手のうんざりする女どもの言葉には私は沈黙で答えた。
皆が言うような人生であれば、自分にはいらない! と無言で語った。私は大人だけではなく、幼い子供も権威や周囲に対して自己保存のための自己中心的な鋭敏さを例外なく持っていることを知っていた。
幼い子が純粋で無垢などと誰が言い出したか知らないが、全くの愚鈍(ぐどん)な解釈である。その解釈は生まれたての赤ん坊ならともかく、絵空事の観察としか言いようがない。
恐らく、自分の鈍さを蔽遮(しゃへい)するために作り出された願望であろう。子供は単に自分の身を守るために備えている獸の特性に正直であるだけだ。