北満のシリウス

八月七日 午後四時頃 ハルビン キタイスカヤ路上

アイザックが、松浦洋行の方角に目を止めた。

「おい、雪舟、あれを見ろ」

雪舟は、その方角に顔を向けた。エドゥゲーフも、その方向を見た。

キタイスカヤの雪舟達がいるのと反対側、松浦洋行の手前のところで、二人の男が何やら口論しているのが見えた。二人のうち、向こう側にいるのは、年配の小柄な中国人の御者、こちらに背を向けているのは、日本人の十四、五歳の少年のようだった。

次の瞬間、その少年が、御者の顔を殴りつけるのが見えた。御者は、後ろによろめいて、殴られた左頬のあたりを両手で押さえてしゃがみ込んだ。

雪舟達三人は、往来を行き来する車が途切れたすきに、早歩きで、キタイスカヤの石畳の車道を斜めに渡り、その二人のところへ近づいていった。

「おい、坊主、何やってるんだ」

少年は振り返って雪舟達三人の顔を見た。

「何だ、おっさん達は」

眉毛がやたらと太く、その割には目の細い、もっさりした顔立ちの少年だった。それなのに、美男子の雪舟をおっさん呼ばわりするところが、傍からみればこっけいだった。だが、どんなにもさくても少年は、一応、少年に見えるし、雪舟は大人の男に見えるから面白い。

雪舟は、しゃがみ込んでいる御者に近づいて、自分もしゃがんで覗き込んだ。

「大丈夫ですか?」

御者は、顔を押さえたまま、何も言わない。雪舟は、少年の顔を見た。

「どうして殴ったんだ?」

「俺は、さっき地段街のほうから、こいつの走らせる馬車に乗って来たんだ。それで、ここに着いて、今、料金を払おうとしたら、三十銭だなんて言いやがる。だから、十銭にしろって言ったんだ。だいたい太陽島に渡る舟が十銭なんだぞ。

馬車がその三倍だなんて、おかしいじゃないか。なのに、いくら言っても一向に譲らない。だから、頭に来たんだ!」

雪舟は、ジャケットの内ポケットから、小銭入れを取り出して、そこから出した三十銭を御者に渡した。御者は、しゃがんだまま、それを受け取って、笑顔で何度もお辞儀をした。

「ありがとうございます。ありがとうございます」

雪舟は、立ち上がって少年に顔を向けた。

「それで、無抵抗の人間に暴力をふるったわけか」

「悪いか? 相手は中国人だぞ! 日本人の言うことを聞かない中国人を殴って何が悪い」

雪舟は、少年の斜め後ろに立っているエドゥゲーフの顔と、自分のそばに立っているアイザックの顔に目をやった。