仙一
夕食の時の仙一の一夫に対する一言が、まさかの冗談とは取れなかったのである。一夫は、仙一の一年先輩で、今季から飯炊から下人に格が上がった。
下人とは、蔵人では下位に位置するが、それでも飯炊よりは上で、仙一が入ってきてからは一夫が仕事上でも上になった。順調に行けば、来年には後輩が入り、そうなれば仙一にとってももう少し蔵の仕事もさせて貰える様に成る。
仙一が放ったタバコ屋のおばさんの一言は、仙一の考えの中に深い意味はなく、唯の冗談だったのだが、仙一の言葉は的を得て一夫を焦りへと向かわせた。
一夫にしても、19歳にやっと手が届くまだまだウブな若者だった。
黙って食べさしのごはん茶碗の上に、ご飯粒の付いた箸を置き、真っ赤な顔をして立ち上がり一段下がった三和土(たたき)から、下駄を引っかけてすりガラス戸を開け放したまま出ていった。
驚いたのは仙一だった。大げさな事でもないのだが、今が思春期の真面目な一夫にしてみれば、それは急激に血が頭に上って目が回る程のその一言で意を突かれて、もはや冗談どころでは無くなった。
しかし、周りの先輩の大人達には、過ぎ去った我の青春を重ねて、思い返す程の事もなく、食事模様は一瞬のうちに元に戻り、何事もなかったかの様に和やかな中に続いた。
ただ、黙って燗酒を飲みながら、一夫と仙一の気持ちに想いを馳せていたのは杜氏だった。
杜氏の弥平は、仙一の叔父で他の蔵人同様但馬に家族を置き、単身上京をして蔵人をこの酒蔵に集合させ酒造りを仕切る。弥平は、終戦のあくる年に満州から引き上げて帰国。直ぐに以前からの蔵人として働いていた。
この酒蔵に戻り、前から腕は買われていたのだが、年老いて引退をした前の杜氏から、自然に後を引き継ぐ様にこの酒蔵所の杜氏に成った。彼の口利きで仙一が福井県から呼ばれ蔵人と成った。
だから、蔵人集団の但馬出身者の中に、よそ者の越前出身の仙一が一人混じっていた。弥平は、仙一の父同様に大柄な男だった。寡黙だが、思いやりのある人物で、みんなから慕われていたし、杜氏としても、充分な気質と素質を併せ持つ人柄だった。
弥平は、杜氏としてはこの世界では比較的早い出世と言える。他の誰も気づいて居ない、弥平が仙一を見る目は、父親が息子を見る時のあの愛情豊かな眼差しだった。
仙一はその事に以前から気づいていた。
叔父なら、誰でも甥に対してかける当たり前の気遣いが、至るところで感じ取れた。そして、仙一はその事に気づかないふりをするのに苦労をした。