仙一
仙一は夢を見ていた。
父に手を引かれ、路面電車の石畳の線路の上を歩いていた。
自分はまだ3歳かそれより幼く、5本の指で父の左手の人差し指と中指をしっかり握りしめ、明るい夏の眩しい陽の光から逃れる様に、父の身体に寄り添って歩いていた。
父が言った。「このまんま父ぅちゃんと行くか」仙一は黙って頷いた。
幼い自分が行く先を分かっている。
「父ぅちゃんが一緒なら行く、母ちゃんは? 尚と一恵は?」
「母ちゃん達は後で来るよ」
仙一は、陽の光の眩しい程の明るさと暖かさの中で、父から受ける愛と、安堵の喜びを身体一杯に受けていた。
1.始まりの伏見
そこは、二百年以上の長い年月を伝統で受け継がれた、酒造りの樽を何代もに渡り、洗っては乾燥させて又使う繰り返し。密かに生き続ける湿気に入り混じった麹(こうじ)と黴(かび)の匂いが、石床の上に冷気と共に漂う蔵の奥深く。
分厚い土壁の、高い場所に小さく切り取った窓から朝日が入り、湿った石床の上に
四角く切り取って眩しく神々しいコントラストを描いている。
木本仙一は自問する。
この造り酒屋を辞めて、故郷の福井県越前の糠(ぬか)へ帰って、自分に何が出来るのか。郷(さと)に帰れば、農業か漁業の他に選択肢は無い。
あの辺りでの農業は、若い仙一にとって、母の静子やまだ幼い弟の尚、そして妹一恵を食べさせてやっとの生活しか出来ない。しかし、ここの酒造りで得る給金は家に送金も出来るし、酒造りの技術を習得し、杜氏への道も夢ではない。
その歳で、自分の目標や希望が定まらない未来への焦りが仙一を捉えて苦しめていた。そして又家族と離れての辛い長い下働きで、先が見えない今の仙一だった。