仙一
仙一もその後郷へ帰り、不在の期間を埋めるが如く野良仕事に明け暮れる。
しかし、10月までの期間の農作物以外の現金収入は無くなるといった塩梅だった。
幼い弟達は、仙一が不在の時も、仙一のいない空白を埋めるが如くよく働いたし、仙一が一緒の時は、なお一層健気に働いた。
仙一と一緒で嬉しいのだった。
農作業は全て手仕事だった為、農業従事者にはシンドイ時代だった。
第二次世界大戦終戦後暫くしての1946年(昭和21年)GHQの指揮下、政府による農地改革で小作制度は廃止され、自分の田畑は、地主から半ば強制的に安い料金で払い下げられた敗戦後の大変な時期。
しかし、終戦後の荒廃した中にも、明るい光が差し始め、平和が芽吹き始めていた。
尚はまだ10歳、一恵も12歳の幼さだったが、しかし彼らは母の苦労を知っていてよく手伝った。
兄の、仙一の言う事もよく聞いて、朝起きると暗いうちから家の裏の鶏舎で鶏の卵を収穫したり、朝食用のネギや青物なども、進んで裏の畑へ収穫に行った。
朝ご飯を食べた後、徒歩で数十分をかけて山を下り、海側の小学校へ登校した。
末弟の尚が生まれたのは戦時中で、父の戦死広報を受け取ったのはそれから暫くしてからだった。
故に尚は、父の顔すら知らない不憫な子だったが、辛い環境の中でも明るく元気で利発な子に育った。 母の静子がそれを意識して、明るく振る舞ってきたおかげかも知れない。
その事を10歳の尚には分かる筈もないのだが。
その年の蔵人としての仕事を終えて帰郷をした仙一は、黙って野良仕事を熟した。
仙一は、尚と同じ年頃には既に尚より身体も大きかった所為で、一人前の男に近い力仕事を熟した。ただ、その年頃では、母の指示通り以上の事まではまだ出来ていなかったが。