帰郷して早々の春に、田植えの為の準備にかかる。
先ず田起こしであるが、秋に稲を刈り取った後そのまま放置してある為、牛に引かせて掘り起こし、肥料を撒いて水を張るのだが、仙一の家では牛は飼っていないので、隣家からその時だけ借りてくるのだ。
田植えといっても3反分で、米に成っての収穫は約38〜40俵分である。
それも、天候に影響されてもっと少ない収穫の年もある。
家族で1年を通して食べる分を蓄え、それ以外を出荷。
仙一が不在の時を考えても、年に約5、6俵を家族で消化し、30数俵が出荷する量に成る。
仙一の、伏見での約半年の酒造所で得た給金と、米など農作物の収穫で得た現金が、主な木本家の一年間の総収入になっていた。
家の周りの空いた土地で、葉物野菜やきゅうり、キャベツなどの種撒きは、母が収穫を考えて粗方仙一の帰郷前に済ませてくれている。
帰って早々に苗代田で稲の種を蒔き、1ヶ月余りで発芽成長した苗を今度は水田で母親と二人で田植えをする作業が待っていて、自分が家にいる間には、多岐に渡りする事が山積みである。
秋には再び京都の酒造会社への上京が待っているが、米が実り、収穫までには中干し(土用干し)の作業が有ったり、刈り入れまでにも雑草の除草作業も度々必要である。
そして他所よりも早くに田植えを行い、その土地にしては早くに米の収穫をして家を後にする事になっていた。
母は、仙一が帰郷をしてからは、仙一を主に崇めて何事も仙一に相談をし、そして決めさせた。仙一が、自分達と一緒に過ごす間は、何も言わず仙一の手伝いをした。
それは起きる時間から始まり、食事も仙一の音頭で始める様にした。
仙一は、まだ18歳になって間もない、今の時代なら少年なのだが、家長として、父の居ないこの家を取り仕切り、父の代わりとして何処から見ても父性に陰りなく健気に尚と一恵への愛情を注いだ。それは、母の静子の想いが大きく後押しをしていた。
仙一は、もう既に亡くなった父によく似た大きな身体をしていたし肌は白く、骨格の大きな身体で顔の作りも深く、白系ロシア人の血を引くさまだった。
太平洋戦争から終戦を迎えた少年期には、見るからに日本人とは違う容姿が、同じ子供の間でも敬遠され、他の子供達に劣等意識をも感じさせる姿形による事から来たのか、友達もあまり出来ない、そんな寂しさを纏って大きくなった。
父の泰平にロシア人の血が混ざっていたのだが、泰平はカラは大きく色白でハンサムだったが、特徴的に顔の作りはそれ程でもなく、仙一にロシアの血が色濃く出たのであろうか。
本人は、大人になろうとしている中、他人からその事を言われるのは疎ましかった。
【前回の記事を読む】家族と離れての辛い長い下働きで、先が見えない今の仙一だった。