S氏の思い出に

    

追憶は「現在」のもっとも清純な証(あかし)なのだ。 愛だとかそれから献身だとか、そんな現実におくためにはあまりに清純すぎるような感情は、追憶なしにはそれを占ったり、それに正しい意味を索(もと)めたりすることはできはしないのだ。それは落葉をかきわけてさがした泉が、はじめて青空をうつすようなものである。泉のうえに落ちちらばっていたところで、落葉たちは決して空を映すことはできないのだから。

三島由紀夫『花ざかりの森』

プロローグ――二〇二×年、夏

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「あっつ……」

七月最終週の月曜日、午前八時三十五分。駅を出たわたしは、容赦なく照りつけはじめた陽射しから逃げるように走った。そのままロータリーにある桜の木陰へ飛びこむ。

たちまち、アブラゼミの鳴き声が見えない雨になって頭上から降りそそぐ。

小手(こて)をかざしながら、ゆっくりと樹を見あげる。葉陰(はかげ)のすきまできらきらと輝く青空のかけらがメガネに反射する。アブラゼミは、姿を見せないまま悠々と鳴き続けている。

週初めの朝だというのに、早くも気力は萎(な)えなえだ。

額(ひたい)にぽつぽつと浮かんだ汗の玉を指でぬぐって、さてどうしたものか、と考える。

確かなのは、いつまでもここでウダウダしているわけにはいかないということ。