ふうっと息をつき、わたしは、うまく日陰を渡って事務所にたどりつくにはどうしたらいいか、けっこう真剣にその道筋を思案した。
夢見るころもお肌の曲がり角も過ぎたけど、この季節、メラニン色素と友だちになるのだけはやっぱり避けたい……。
そのときだ。同じように木陰へ駆けこんできた同年輩の女性が、わたしを見るなり、白昼にオバケと出くわしたような顔でぽかんと口を開いた。
「え? え? もしかしなくても菊のすけ?」
菊のすけ――自分が呼ばれたのだと気づくのに数秒かかった。それくらい、すっかり忘れていたあだ名。当然、その名でわたしを呼ぶ人間の範囲はおそろしく限られている。
いい予感はまったくしないまま、あらためて相手の顔を見る。
フレンチスリーブの小ざっぱりしたサマーブラウス。その上に、にゅっという感じで乗っている細面(ほそおもて)。とんがり鼻に音楽記号のフェルマータをふたつ並べたみたいな眉と目。
「三吉さん、だよね。ごめんね~、懐かしすぎて、ついあだ名で声かけちゃった」
「ええと……牧野島さん?」
「あ! 覚えててくれたんだ! めちゃうれしい!」
そう言ってその女性は、肩口にかかるツヤのないワンレングスを中指でファサッとかきあげた。そのしぐさでようやく確信がもてた。確か、下の名前は紅留実(くるみ)――大学二年のときのゼミでいっしょだった子だ。
実際には、いきなりあのころのあだ名でなれなれしく呼ばれるほど親しかった覚えはない。ただ、こぢんまりとしたゼミで、しかも集まったのが女子ばかりだったこともあり、学生どうしの距離はそれなりに近かった(当然、面倒ごとも絶えなかったけど)。そのおかげで、消えかけた走り書きみたいな記憶が、かろうじて頭の片隅に張りついていたのだ。