しかし、大学当局は、「教養部恒久サークル棟」の建設に努力していると強調するだけで、いつになったら実現するのか、という具体的な期限は全く示さなかった。しかも、密約で締結された「1・12協定」によるサークル部室の移転の履行を迫るのみであった。

また、「部室のないサークル」を含めた約110ある活動中のサークルの「1サークル1部室」を保証する具体案は示さなかった。

この頃から大学当局の姿勢は硬直化して、主張も一方的になり、ひたすら「サークル協議会」に、サークルの「30番台教室」への移転を迫るものとなっていくのである。この強硬な態度への変化の裏側には何があったのか。

また、「教養部恒久サークル棟」の文部省の予算はどうしていつまでたってもつかなかったのか。これらに対する疑問は、処分粉砕闘争の最終局面となる1976年9月のサ活専団交まで明らかになることはなかった。

1974年12月2日、「サークル活動専門委員会」との団交が行われた。大学当局はあくまでも「1・12協定の履行が話し合いの前提である」と述べ、第1、第2サークル棟の年度内取り壊しの最後通告を行ってきた。そこで、「サークル協議会」に結集した学生側は、次のように追及した。

「『1サークル1部室の原則』をどう思うのか。恒久サークル棟のめどがないままの30番台への移転は応じられない。『川内・青葉山総合移転計画』の中で、30番台に道路が通ることになっているのはどうしてか」

これに対して、サークル活動専門委員は何も答えなかった。そして、次のように居直った。「1974年度中に移転せよ。そのためにサークルを説得せよ。来年の1月25日までには、最終的な見解を持ってきなさい」

1975年1月22日、「サークル活動専門委員会」は、一方的に「サークル協議会」との団交の拒否を通告してきた。このため「サークル協議会」は、その2日後の24日の教養部教授会において、話し合いが行われない現状を訴えるために、「サークル協議会運営委員」の発言を求めたが拒否された。

1月28日には、24日の教授会(これ以降は、特に断りがない限り「教養部教授会」を指す)に「乱入」したとして、1名に名指しの警告が出された。

  

【前回の記事を読む】【学生運動】1973年1月、密約が結ばれた。東北大学当局が提示する移転案を、サークル員全体の意見を全く無視して承認し…

 

【イチオシ記事】「歩けるようになるのは難しいでしょうねえ」信号無視で病院に運ばれてきた馬鹿共は、地元の底辺高校時代の同級生だった。 

【注目記事】想い人との結婚は出来ぬと諦めた。しかし婚姻の場に現れた綿帽子で顔を隠したその女性の正体は...!!