その1 始まり

1969年5月14日に結ばれた佐川確約

ところが、1月19日に「社会思想研究会」というサークルから、「1・12協定」に関する公開質問状が「サークル協議会運営委員」に提出された。これに対して、当時の民青系「サークル協議会」は、サークル協議会総会も開こうとせず、質問に答えないなど、全く説明する姿勢を見せなかった。

2月15日、「第1、第2サークル棟」の取り壊しに反対するサークルは、民青系の不透明な「サークル協議会」の運営の仕方に対抗して、「サークル連合」を結成した。

5月25日、サークル協議会総会において、「サークル協議会運営委員」の改選が行われた。ここで民青系「全学連」統一候補に対して、「恒久サークル棟即時実現・恒久サークル棟の保証なき移転反対・1サークル1部室・自主管理自主運営・第1、第2サークル棟の改修存続」をスローガンとする「サークル連合」統一候補が勝利した。

これにより、ようやく 1月12日に民青系「サークル協議会」運営委員が大学側と結んだ密約の内容が明らかにされた。特に問題となったのは、恒久サークル棟の保証のないままの「第1、第2サークル棟」の「30番台教室」への移転であった。この移転先の「30番台教室」は、市営道路が通過する予定があり、いつ解体されるかわからなかった。

1973年の「1・12協定」では、「『30番台教室』は、恒久的サークル棟ではない」という大学側との最低限の再確認だけはなされていた。

しかし、「第1、第2サークル棟のサークルは30番台教室に移転する」ことなどの内容が問題であった。これは、前年の「サークル協議会」での10・18決議「1サークル1部室」「恒久サークル棟の保証なき移転反対」に全く反するものであった。しかも、これ以降は、大学当局はこの協定を根拠にして、一貫してサークル部室の「30番台教室」への移転を学生側に迫ってくることになる。

つまり、大学側から「教養部恒久サークル棟」建設の確約がないままに、学生側は、いつ取り壊されるかわからない「30番台教室」に移転させられることが問題なのであった。これでは、サークル部室が大学側の都合により、いつ一方的に取り上げられるかわからないことになる。

7月3日、「サークル協議会」と「サークル活動専門委員会」との団交が行われた。大学当局は、「教養部恒久サークル棟」建設については、次のように回答した。

「教養部として最重要項目の予算として恒久サークル棟建設案を出す気でいる」