「今日はほんっと疲れた。もう寝る、おやすみ」
「まだ十一時だよ。子どもじゃん」
「あのね」喜美子はフウとわざと大きく息を勢いよく吐き出し、「あなたもあと十年もすればこうなるんだよ」。そう少女に対して言ってしまった皮肉で、喜美子自身の心臓は抉られた。「いや、ごめん、そうならなくていい。仕事にくたびれてヘロヘロな女は私だけでいい」
「休んだらいいじゃん」
「休めるんならとっくに休んでるよお」喜美子は失笑した。自分が会社を棄てようものなら、課長が部長が役員が、「待って、そりゃ困るよ」と脂汗でぬらつく手でスーツの裾を掴んで、「給料ね、いくらだったらいいの、いくら払えば辞めないでくれるの」と懇願する。何がなんでも引き止めるべき価値を付与されていると信じ込んで、「幸せ」を諦める口実にしている―「幸せ」の意味について先哲が言語化しようと刻苦したのに、実はすでに知っている、自分は「幸せ」ではないと。
「あたしが代わりにやったげようか」「無理無理」「わかんないよ、案外できちゃうかもよ」「あんた、パソコン触ったことある?」「ない」「でしょ」
喜美子は冷蔵庫を開けて酎ハイに手を伸ばす。ゼリーやチョコレート、惣菜がなくなっていることに喜びを感じる。
(ああ、もしや、これは「幸せ」の端っこに手を掛けているのかもしれない)
【前回記事を読む】部署の空気は、ルッキズムに満ちていた。同性からは憧憬の目を向けられ、男性社員からは、はっきり「女の若さ」を求められ…
次回更新は1月30日(木)、18時の予定です。
【イチオシ記事】「歩けるようになるのは難しいでしょうねえ」信号無視で病院に運ばれてきた馬鹿共は、地元の底辺高校時代の同級生だった。