バースデーソングは歌えない。
4 幻想 〜美結〜
守ってくれる人がいる―安心が眠気を誘う頃を見計らって、頻繁に過去の情景が脳裏に飛び込んできた。一番古い記憶は、幼稚園での大喧嘩―ある男子園児が「おまえの髪、ウンコみたいだよな」と馬鹿にしたのが発端だった。生まれつき色素が薄く、まるで染めたようなダークブラウンの髪は強い癖毛で、太い束が頭からぶら下がっていた。
男子は美結を傷付けようと意図したわけではなく、むしろ美結に関心を向けられたかっただけだったのだが、侮辱されたと思った美結は激昂し、男子の髪を千切れるほど強く引っ張った。痛い! 痛い!と叫ぶ男子の目に涙が滲む。先生がダーッと走ってきて、やめなさい!と一喝する。
血走った美結の目は、黄色い床を舐めまわし、工作をしていた子の付近に鋏を見つけると手は蛇のように動いた。刃に男子の髪を食い込ませる寸前、先生に頬を引っ叩かれた。乾いた音に遅れて、空を切る声が教室に響いた。
記憶は断片的で、次に見たシーンは自室のベッドから仰いだ天井である。母親が激怒して幼稚園に乗り込み、担任に非難を浴びせ、すぐに転園する手続きをとったことを覚えている。母は、娘のために涙を流してくれたのだろうか。不幸を目の当たりにした自分自身に同情しただけだったのだろうか。
母親は、いつも神経質だった。「社会」という他人からの評価の総称に怯えていた。娘のことを第一に考えているようで、絶対的に愛しているわけではなかった。英語やピアノ、水泳などの習い事を、さも娘がやりたいからやらせていると勘違いをしていた。美結が「やめたい」と言っても、将来きっと役に立つから、とその申し出を受け入れなかった。