父の給料日の次の日、決まって母がやることがあった。家族六人分の下駄を買うことである。日常生活は下駄が中心、小学校の途中頃からは靴を履いて学校に行くようになった。
上履きなど買ってもらえる子はいいが、裸足で駆け回っている子も多かった。校舎のすのこに出ていた釘で怪我をした子もいた。遠足に新品の靴を履いていって豆ができ痛い思いをしたこともあった。
毎月の下駄の買い出しには、もちろん私もついて行った。新品の私の下駄は流線形で、赤い鼻緒が可愛らしくもったいないくらいだった。大風呂敷に、家族全員分の下駄を包んで嬉しそうに運ぶ母の姿を覚えている。
子どもの頃、いつも家には犬がいた。野良犬か捨て犬かがいつの間にか居ついていたというもので、ほとんど放し飼い状態。家人が留守になる時だけ犬小屋に繋いでいた。
今の時代のように、家の中で飼ったり、洋服を着せたり、定時に散歩に連れて行くなどとは無縁だった。犬にとっては伸び伸び生活できていたことだろう。私は末っ子だったので、犬にはアネキ風を吹かせてよく一緒に遊んだものだ。
雪下ろしで山になったテッペンで、ワンコがお座りして辺りを見回していた姿などよく覚えている。ドッグフードなどあるはずもなく、残りのご飯に味噌汁をかけたような餌を与えていた。
何匹かの代替わりがあるが、我が家に居つくのは決まって雄だった。どこまでも続く真っ白な雪の原をワンコと散歩し、一人と一匹の足跡が点々と続いているのを見ておもしろがったりした。
晩秋の、雪が降る前に行われていた小学校の学校行事がある。全校あげての「いなご捕り」。米どころ新潟の長岡、校舎の周りも一面水田だった。稲刈り前の田んぼには、無数のいなごが押し寄せてきていた。
その日ばかりは授業中止で、全校児童がいなごを捕る。竹の筒に晒しの手拭いの袋を取り付けて一斉に行動開始。いなごは捕り放題で袋はすぐ一杯になる。
校庭では母親たちがスタンバイ。大釜にお湯を沸かして待っている。捕ったいなごは順次この大釜へ入れる。佃煮の原料として業者に売り、そのお金は図書室の本を買ったり、プール建設の資金に充てられた。
私はいなご釜茹で現場を見てからは、いなごの佃煮は絶対食べられなくなった。懐かしい思い出の一場面ではある。
今も覚えている寒い朝の出来事がある。確か五年生の三学期、始業式がある日のことだった。ちゃぶ台を囲んで家族揃って朝食。何か違和感を感じてトイレ(まだ汲み取り式の便所の時代)に立った。
「えっ、私大変な病気かもしれない」と青ざめ、家族全員の前で「血が出たの」と大きな声で告げた。
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