第二話 雪降る町で

当時、両親の食費のやりくりは、食べ盛りの子どもたちを抱えて大変だったろうと思う。

ある休日の昼食。炬燵(当時は炭火)のやぐらをひっくり返して網を乗せ、コッペパンを焼く。こんがり焼いてマーガリンを塗って頬張る。うまい。おかずは魚肉ソーセージ。

小学校では給食も始まり、コッペパンとやかんに入った脱脂粉乳が定番だった。最初の頃はマイ食器を袋に入れてランドセルの脇にぶら下げて登校していた。虚弱児で食の細い私にとって給食の時間は楽しいものではなかった。

脱脂粉乳は変な匂いがするし、コッペパンは私には大きすぎた。給食を残す時は先生に断らなければならなかった。それさえ言えなかった子どもだったので、コッペパンの残りを内緒でランドセルのポケットに押し込むことにした。

しかし子どものやることで、入れたことさえ忘れていた。

ある日母にたくさんのパンのかけらを見つけられお目玉を食らったことがあった。間の休み時間には、保健室で肝油を飲まされていた、痩せっぽちの少女だった。

寒い冬のお風呂は何よりのご馳走だ。私は小学校入学まで六歳上の兄と一緒に入っていた。お風呂場のガラス戸を隔てた外は、雪が積もっている。お風呂が熱すぎる時は、窓を開けて雪の塊を湯船に浮かべる。焚き口のところには大抵母がいて、湯加減どう?と聞いてくれた。

戦後のまだまだ貧しい時代。食べるものも、着るものにも困っていた。ある日父親の伝手で、姉二人の赤いオーバーが手に入った。見るからに暖かそうで、その当時赤いオーバーなんて誰も着ていなかった。貴重品である。

田舎では当たり前であったが、玄関に鍵を掛ける習慣はなかった。玄関を入ってすぐのところに、二着の赤いオーバーは掛けてあった。ある朝二着ともなくなっていた。

誰かが盗んで多分売ってお金に換えてしまったのだろう(自分の子どもに着せたりしたら、すぐ見つかってしまう)。手に入れたばかりのオーバーを盗られた悔しさは、何十年も経った今でも、姉たちの語り草になっているほどである。

決して豊かな暮らしではなかったが、母の手編みのセーターや手作りのギャザースカートなど着せてもらっていた。末っ子だったので、お下がりは当たり前だったが、いつも小綺麗(こぎれい)なものを着て髪にリボンを結んだりして「おしゃれな三姉妹」として、学校ではちょっと有名だった。