生命とありぬ

 

 

人は意志を貫くために、いったいどれだけの努力と忍耐を己に課すことが出来るのだろう。

三日坊主で、常に己を甘やかすことに慣れて生きてきた身には、荻野吟子という女性の生き方はまさに驚異と思えた。

最近、埼玉県熊谷市の利根川べりから畑や枯れススキ野原の間の路を抜け荻野吟子記念館を訪れる機会があった。嘉永四年、彼女はこの地が俵瀬村と呼ばれていた頃の大名主の家に生まれ、記念館はその旧家跡に建てられている。

荻野吟子は、国家試験で正式に医師と認められた日本初の女性医師である。それまでシーボルトの娘イネなど女性医師は数名いたものの正規の医師資格を持つ女医はいなかった。

渡辺淳一の小説『花埋み』には、彼女が晴れて医師となるまでの壮絶な闘いが語られている。

彼女は十六歳で結婚、夫からうつされた性病が原因で離婚、東京順天堂病院で治療を受けるが男性医師に診察される屈辱的な体験から女医の必要性を痛感し女医を志したというのも事実のようだ。

当時、女性は医師の国家試験を受ける権利さえなく、医学を学ぶ環境さえ整っていなかった。

彼女は病を抱えながら聴講生としてやっと医学生の端に加わることは出来た。しかし女性としての差別はひどく、解剖の実習にも立ち合わせてもらえず、夜更けに墓地に忍び込み埋葬された体を掘り出し解剖学の実習をしたこともあったらしい。

女性医師の前例なしと、十数回も却下され続けた受験願書がやっと受理され、四名の女性受験者中、たった一人合格となったのは明治十三年であった。

食まで削るほどの苦学を続けた彼女は、合格の決まった日、ビロードの晴れ着と帽子を買い自分の為の記念写真を撮った。

記念館に掲げられた彼女の写真は、凛と胸を張り、およそ努力忍耐とは縁遠い私から目を背けるように、きっとした目で前方を見つめていた。

記念館の入り口近くに、揺るがなかった彼女の意志のようなどっしりとした句碑が建てられている。

荻野吟子の生命とありぬ冬の利根 金子兜太

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